第13回 都電貸切りクリスマスコンサート

開催概要
日程:  2009年12月23日 水曜日(祝日) 午後2:00発
早稲田出発~三ノ輪橋 都電一車両貸切り50分間の旅
出演: 高木真理子(ハープ)・玉木宏樹(ヴァイオリン)
料金:¥4,500/1名様 (会員特別価格\4,000)
ご予約:電話=03-3407-3726 Eメール=puremusic0804@yahoo.co.jp
尚、到着後12時頃より三ノ輪橋にて、玉木宏樹を囲んでの食事会をご用意して おります。
別途料金(3,500円)になりますが、是非ご参加いただけますと幸いです。
本件に関するお問い合わせ NPO法人 純正律音楽研究会(担当:相坂)
〒106-0031 東京都港区西麻布2-9-2 電話 03-3407-3726 FAX 03-3797-5640

第14回玉木宏樹の♪都電貸切り純正律音楽コンサート♪

開催概要
日程:  2010年5月22日 土曜日 午後 2:00発
早稲田出発~三ノ輪橋 都電一車両貸切り50分間の旅
出演: 吉原佐知子(お箏)・玉木宏樹(ヴァイオリン)
料金:¥4,500/1名様 (会員特別価格¥4,000)
ご予約:電話=03-3407-3726 Eメール=puremusic0804@yahoo.co.jp
尚、到着後12時頃より三ノ輪橋にて、玉木宏樹を囲んでの食事会をご用意して おります。
別途料金(3,500円)になりますが、是非ご参加いただけますと幸いです。
本件に関するお問い合わせ NPO法人 純正律音楽研究会(担当:相坂)
〒106-0031 東京都港区西麻布2-9-2 電話 03-3407-3726 FAX 03-3797-5640

純正律講座上級編

純正律をはじめとする様々な音律に関する歴史や思想的背景を解説します。

当コラムでは皆様から音律に関する質問を受け付けております。「これが知りたい!」という疑問がある方は是非ご投稿下さい。それに答える形でコラムを連載することができたら,と思っております。

目次

玉木宏樹のコラム

ビブラートの正体について

私はヴァイオリン奏きなので,ビブラートをかけるのは絶対的な日常性なのだが,この,一見純正律とは相反するような奏法について考えてみたい。ただし,ビブラートの歴史や必然を述べている著作にはほとんど出合ったことがないし,大部分は自分の体験上の裏付けによっているということを前提にするので,私が間違った記述をしたり,または別の角度からの意見があったら,ぜひ,投稿するなり私のホームページの掲示板に書き込むなりしていただきたい。

「特権」としてのビブラート

さて,ビブラート(英語ではヴァイブレーション)は,ある音程を基音に,微妙なピッチの上下によって「ふるえ」を生じさせ,強弱等のエモーションを強調させる役割を担っている。現代の大人の演奏は,ソロの場合,歌でも音楽でもほとんど無自覚にビブラートをかける。古楽や小アンサンブルのコーラス,ブルガリア系のコーラス以外は,全く無自覚にビブラートをかけて歌うので,コーラスの場合,ハモることを全く度外視して悲惨な結果を招いている。大多数のママさんコーラスはもとより,プロと称している合唱団も総て,ハモるのが基本の「純正律」上から見ると死刑に値するほど勝手なビブラートをかけあって,何が何やら分からぬ騒音集団と成り果てている。

天国的な協和を目指す我が純正律音楽研究会に於ては,こういう騒音は退治してまわらなければならないのだけど,その代表者たる私・玉木がヴァイオリンを奏くと,ほとんどの場合,ビブラートをかけっ放しである。私がよく純正律のカラオケ・テープに合わせて奏く場合でも,バックはノンビラートなのにソロ・ヴァイオリンはビブラートをかけまくっている。そして当然,ビブラートをかけた瞬間の(譜面の)「たてわり」は明らかにハモってはいない。これはどういうことなんだ!結論から先に言ってしまおう。ビブラートをかけることができるのはソリストの特権なのである。

少し視点を変えよう。通常のクラシック楽器の場合,ほとんどはビブラートをかける。ただし,ハープやピアノ,ギター等,音が伸びない楽器はビブラートをかけられないし(遅い曲におけるギターを除く),そういう楽器の場合は音が伸びない部分で速いパッセージやアルペジオを多用する。この「速いパッセージ」は後ほど重要なテーマになるので覚えておいてほしい。

クラリネットの謎?

ところで,音が伸びてもビブラートをかけない楽器がある。それは,大部分のホルンとほとんどのクラリネットである。ホルンの場合,ソロよりも4人くらいのアンサンブルの方が効果的であり,その場合は,ノンビブラートで完全にハモらないと,吹いてる人達も聴いている方も非常な不快感に襲われる。ウェーバーの「魔弾の射手」の序曲のホルンが銘々ビブラートをかけたら,地獄に落ちた狼のような響きがするだろう。

そして,木管楽器では唯一,クラリネット。この楽器はもちろんビブラートがかけられないのではない。ベニー・グッドマンをはじめとしたジャズ・クラリネット奏者は,物の見事に魅惑的なビブラートをかけるのに,なぜクラシック奏者はかけないのだろう。私はこれに対する的確な答えをきいたことがない。多分,品がないという理由かもしれないが,それでは,オーボエやフルートは全く下品な楽器ということになる。

私の憶測にしか過ぎないが,クラリネットがノンビブラートなのは,実はクラリネットが一番新しい楽器であることの証拠のように思えてならない。

クラリネットは大体,1700年頃発明(というか古楽器の大改良)されており,種々の改良を経て,モーツァルトの後期の交響曲(特にNo.39)にも取り入れられ,また,モーツァルトの代表曲として,クラリネット協奏曲,クラリネット五重奏がある。モーツァルトの後期は,クラリネットと共にピアノフォルテのチェンバロ(ピアノの前身)も登場し,ベートーベンへと受け継がれ,音楽の在り方が激変する。

ところで今,古楽ブームがあり,モーツァルト・チューニングとして,今よりも約半音低い音程でのアンサンブルが流行っている。そのアンサンブルは,原則的にはソロ以外はノンビブラートである。

パガニーニ時代のヴァイオリンは,ソロでさえノンビブラートだったらしい。ヴァイオリンのビブラートが一世を風靡したのはサラサーテの登場以来といわれている。

昔気質の新人・クラリネット

さて,リード系の木管楽器の場合,オーボエもファゴットもどちらかといえば音程がふらつき易く,特にフルートは音程が安定しにくい。モーツァルトはフルートの曲も残しているが,内心,フルートは音程が悪いから嫌っていたようだ。ハモることを前提にしていた古典派の演奏で,オーボエやフルートをノンビブラートでハモるのはなかなか難しい。そこへさっそうと現れた新楽器クラリネットは,その音色のせいもあって,ノンビブラートでハモった時がすばらしく美しい。だから,一番よくハモる楽器として登場して以来,ずっとその伝統が受け継がれてきたのではないだろうか。

もともと音程の不安な複リード楽器はビブラートに頼るようになり,昔のようなハモりの響きが失われていったのが現代のオーケストラであり,その中にあって未だに頑固にハモりを主張して新しい楽器なのにコンサバになってしまったのは大変面白い。

話は変わり,ビブラートには2種類あるのはお分かりだろうか。たいていのビブラートは,確固とした基音の音程があり,その基音を中心に,上下に音程変化をさせる方法。弦楽器,フルート,方法論の特殊なものとしてビブラフォンやエレキピアノもこの部類。昔,ハモンドオルガンのビブラート用にレスリーというエフェクターがあったが,これは実は扇風機であり,羽の回転によりディレイのかかった音程変化が得られる。原理的にはビブラフォンと同様である。ところが,基音のないビブラートがもう一種類。それはブラス系のビブラートと人間の歌声のビブラート。これは確固とした基音はなく,ある幅で,基音と思われる音の周辺のをはっきりと音程変化させている。なかなか説明するのは難しいが,トロンボーンのようにスライド式の楽器のことを想像すると分かっていただけると思う。人間の歌声がまさにこの方法であり,オペラアリアのトリルなんか,ビブラートを激しくしただけのことであり,あまりビブラートとの違いははっきりしない。なんとなくビブラートの幅が多くなっただけのようでもある。

歌声のようなvln二胡奏法

ところで,同じ弦楽器でも中国の二胡という胡弓のビブラートはヴァイオリン族とは全く違い,歌のビブラートと同じように音程変化で表現する。二胡にはもともと指板がないので,安定した音程を作りにくいが,弦を深く押さえることによって音程は高くなる。だから二胡のビブラートは弦の押さえ方の強弱で表現する。ギターでいえばチョーキングであり,シタールも全く同じである。

私は自分のヴァイオリンで二胡風のビブラート奏法をするが,これは左手の一本指だけで演奏する。音程の上下関係でかけるビブラートはほとんど二胡風で,全く,ヴァイオリン的ではない。私はある時,ソプラノとのデュオの仕事があり,このビブラートを使ったところ,ソプラノが2人いるように聞こえた。ヴァイオリンが一番人間の声に似ていると言われるのには,このような演奏方法をしないと分からないのである。

ピアノと純正律

紅白でゴスペラーズが出て話題になり,急激にハモるコーラスが注目されだしている。私から見れば,ゴスペラーズも善し悪しで,1940年代の黒人ゴスペル・グループとは比較のしようもない段階である。でもハモるということはとても良いことで,純正律への一里塚である。テレビでも「ハモネプ」コーナーなどもやっており,ますますハモる系統が増えていくことだろう。

いま,アマチュアが熱い!

さて,2002年3月17日に横浜栄区の音楽協会によばれ,リリスホールで純正律のレクチャー・コンサートをやったが,ほぼ満員。しかも圧倒的な支持を受け熱い興奮が伝わってきた。アマチュア音楽愛好者の集まりだったが,コーラスの人も多かったため純正律に関する興味と関心は非常に高かった。一緒にステージに上がってくれた女声コーラスのプーラ・ボーチェは一切ビブラートもなく,あの懐かしい小倉朗氏の「ホタル」が見事にハモり,ちゃんとエコーの様にきこえたのがとてもよかった。このように最近のコーラスはビブラートをかけない人達が増えてきた。とても良いことだ。二期会コーラスや東京混声合唱団もぜひそうして欲しい。でないと,プロと称するコーラスだけが濁りきった叫び合い集団になってしまうだろう。

プーラ・ボーチェにはカノン(輪唱)の指導コーナーまでお付き合い頂いて大変面白い会になった。

ピアノ系が抱く大誤解

やや時間オーバーし質問コーナーをすっとばした為,終ってから沢山の質問が文書で寄せられた。結果,純正律に対して一般の人達が陥り易い誤解に1つの共通項がある事に気づいた。これは,いま私が行っている桐朋学園短大の「純正律講座」でも同様である。そこで,詳しい方にはまたかと思われそうだが,おさらいの意味でも,その誤解を説明しておきたい。

それは,ピアノという楽器への信頼感を打ち破る事に強い抵抗感があるからではないかと思われる。コーラス系からの質問は,どうすればよくハモれるのかといった自然なものだが,ピアノ系の人達の質問は,私が何度も説明しているにもかかわらず「ピアノで純正律に調律できないのですか」とか,平均律は大体ドビュッシー以降の百年間位の歴史しかなく,それ以前には様々な調律の工夫があったと,ミーントーン,ヴェルクマイスター,キルンベルガーについてしつこく説明しているにもかかわらず,「ドビュッシー以前の作曲家やピアニストは純正律だったんですね,じゃショパンの24の前奏曲は演奏できないじゃないですか」という,なんかすがりつくような抵抗感が返ってくる。

玉木版調律の歴史概略

知っている人には自明の理だが,もう一度私なりの調律の歴史の認識を書いておこう。グレゴリアンからルネサンスの初期までは,ピタゴラス音律。そして,長3度の協和を発見した頃から純正律(というか,転調がなければ純正調)に目覚め,ピタゴラス音律用のオクターヴを12分割した鍵盤楽器とどう折り合うかということから,初期のミーントーン(中全音律)が考案された。たくさんの調律法の中で,バッハはヴェルクマイスター第3を使ったとされているという人が多い。またバッハ以前のピタゴラス的ポリフォニーから脱却して,協和の響きを取り戻す為,ヘンデルはミーントーンに戻った。このヘンデルの明快さは圧倒的な影響を与え,モーツァルトは完全なミーントーン主義者だった。そしてベートーヴェンも初期はミーントーンだったが,ヴェルクマイスターを改良したキルンベルガー第3を採り入れて,転調を拡大していった。

キルンベルガー再評価

私は自らコンピュータ上で確認しているが,キルンベルガーは一応全ての調で演奏できる。平均律がはびこる以前は,作曲家,ピアニストの好みで,色々な調律法が使われたと思うが,悪貨は良貨を駆逐するの喩えのように,調律しやすい平均律によって,各調の微妙な色彩感がなくなってしまった。なんだか,栄区の人達の質問に対する回答のような中身になってしまったが,たまには後ろを振り返るのもいいだろう。

現代音楽は1976年に既に死んでいた

ここに1枚のCDがある。アルヴォ・ペルトの「アリーナ」(ECMNewSeries1591, POCC1062/日本発売元:ユニヴァーサル・ミュージック)だ。今日はこの話である。

いわゆる現代音楽といっても,広義には,すべての現在の音楽シーンのことだともいえるが,ここでは狭義の「現代音楽」を話題にする。で,狭義の「現代音楽」とは何か?それは,クラシック系作曲家の現代作品のことを指し,それも親しみ易いメロディやハーモニーを基にした分り易い曲ではなく,難解を旨とする(何回聴いても分らない)不協和音の連続で,大概の聴衆には苦痛を強いるだけのやっかいな曲が多い。

誰が音楽をダメにしたのか

時代は大体,1910年頃から,シェーンベルクが無調音楽(調性のない音楽を始め,ストラヴィンスキーは「春の祭典」で激しいバーバリズムをバレエに持ち込んだ。これ以後,クラシック系の音楽は一挙に様変わりし,シェーンベルクが12音音楽の手法を確立するに至っては,時代は一挙にメロディとハーモニーを放棄した騒音的な音楽が主流となっていった。

そして,1930年代になると,後期ロマン派の生き残りの作曲家も姿を消し,ドテン・バタン・グショーンの無調音楽が全盛となる。当時の風潮としては,分り易い曲を書くと完全にバカにされ,そういう指向の人は,ジャズ系に走ったようだ。

なぜ音楽がそういう風になってしまったのか。一つには,作曲至上主義がはびこり,演奏家より優位に立とうとする作曲家の傲慢が,演奏不能,理解不能の風土を育てた。そしてもう一つは,純正律と平均律の問題が横たわっている。

ピアノ用に簡便な(1回の調律で済む)平均律の調律を施したピアノが工場出荷したのが1842年といわれ,それでも最初のうちは,プロからは全く無視されていた。オクターヴ12鍵のピアノに対し,前期ロマン派の作曲家たちは,ヴェルクマイスター,キルンベルガー等の不等分調律を駆使して作曲していたが, 1890年頃から,プロの作曲家,ピアニストたちも殆ど平均律に屈するようになる。独学で作曲の研鑽をしていたシェーンベルクは,アマチュアのチェロ奏きだった。つまり,音程を自分でコントロールしなければいけない立場である。ピアノやオルガン等は調律師がピッチをコントロールし,演奏者はピッチに対し,無関心で,無神経である。

シェーンベルクは調性を愛した

平均律の跋扈は,ハモる美しさをないがしろにする。ハモらない調律で調性音楽(これは純正のドミソを基礎にしている)をやる矛盾を,チェロ奏きだったシェーンベルクは猛烈に自覚し,オクターヴを単純に12分割するだけなら,各音に差別のない,つまり調性にとらわれない方法論を考案した。私は,シェーンベルクほど調性を愛した人はいなかったんじゃないかとさえ思う。彼の和声法の本は,驚くべき内容だし,初期の「浄夜」なんて,調性音楽のひとつの頂点だとさえ,いえる。その彼が12音技法を編み出したのは,平均律に対するアンチテーゼではなかったのか。平均律の特長は,後期ロマン派の爛熟した転調多用に対応できる唯一の調律法と認識されたからであり,その転調多用の調律を逆手にとり,ハモることを徹底的に拒否するんだったら,という開き直りで編み出した方法論が,12音(ドデカフォニー)音楽だったのではないだろうか?

このメロディもハーモニーもない無機的な作曲法は聴衆に苦痛を与え,作曲家は孤立していったが,メロディもハーモニーも必要ない作曲法は,才能のない人にも「作曲」といえるまがいものを大量生産させることになってしまった。

実は私も学生時代,無調音楽で作曲していたこともあったが,なぜやめたか,いつから純正律に向かい始めたか等は,以下詳しく述べよう。また,1976年というのは何かというと,アルヴォ・ペルトがピアノソロの「アリーナの為に」を初演した年である。ぜひ,その曲を聴いてみて頂きたい。

1976年における転換

ポストモダンの音楽が純正律系をめざすのであれば,後世,1976年が一大エポックメイキング,大転換の年だったことになるだろう。ひとつには,もちろん,アルヴォ・ペルトの「アリーナのために」が初演された年でもあるが,純正律的にはそれだけではない。1990年代になって爆発的なヒットとなり,世界中で300万枚は売れたといわれる,ポーランドのグレツキの交響曲No.3「悲歌のシンフォニー」が,実は1976年に作曲されていた。また,アメリカでファナティックな純正律運動を行い,一種教祖的な存在であった,ハリー・パーチが死んだのもこの年である。しかし,パーチの存在は死後の後継者の一群の啓蒙によって有名になっていく。もちろんその頃の欧米の現代音楽の主流は,相も変わらず無調,12音の平均律跋扈だったが,パーチの後継者,ルー・ハリスンは 1970年頃からさかんにアメリカンガムラン運動を行っている。今日の作風からは信じられないが,彼はシェーンベルクに師事したドデカフォニストだった。グレツキやペルトたちも若い頃はバリバリ前衛の無調派だったのもおかしい。そのハリスン先生,今年亡くなられた。84歳かな?合掌。

さて,そのハリスンが愛した,アルメニア系の孤高の人ホヴァネスの,オーケストラと鯨による演奏の「神は偉大な鯨を創られた」は,1970年に作曲されている。また,ミニマルミュージックによって無調から逃れようとしたスティーブ・ライヒも1970年代から活躍している。今から見ると,1976年前後から無調世界に決別した作曲家が一挙に増えている。一方,日本はどうだったか。

元凶は無調派の台頭?

戦後の日本の作曲界は混沌としていて,小山清茂のような民族派,芥川氏の社会主義レアリズム,黛・諸井両氏の電子音楽に代表される超前衛無調派がひしめいていたが,時代は無調に凱歌を上げ,武満氏の「ノヴェンバーステップス」が1967年に初演されてアメリカで大評判をとったことが社会的事件風にも扱われた。しかし,この成功が,その後長い間,日本の現代音楽を一色にしてしまい,ポストモダンには目もくれない風潮が,大きい目で見れば,日本の現代音楽を不幸にしたといってもよいだろう。

日本も純正律再生の時代へ

さて,私自身の1976年はどうだったのかというと,コロムビアより,日本初のロックヴァイオリンアルバム『タイムパラドックス』を出して有頂天だったというかなりのズレよう。私自身,学生時代に無調の作曲もしていたが,平均律の音程感覚が身に合わず(純正律を教えない,知らない芸大とも衝突を繰り返しエリートコースとも決別),本線のクラシック界からドロップアウトして山本直純の工房に入り,商業音楽まっしぐら。そんな中でのロックアルバムだったから,私自身もそちらの前衛になるつもりでいた頃に,人づてにエプソンセイコーに呼ばれ,純正律と平均律を弾き分ける「ハーモニートレーナー」と対面したことが,その後の私を変えるキッカケになっている。「ハーモニートレーナー」は,西独から特注を受けたすぐれものの機材で,各鍵盤ひとつずつに-15 セント,+16セントの微調整のつまみがあり,自分の耳で純正律和音を訓練できる機材である。私は学生時代の純正律トラウマに目覚め,いろんなレコード会社に純正律の企画を出したが,もちろん一顧だにされなかった。しかし世の中はホグウッドたちのオーセンティック運動の発展形として古楽の純正律演奏が盛んになりつつあったが,1989年のカラヤンの死,1990年のバーンスタインの死が欧米のオーセンティック運動に火をつけた。私は演奏面での純正律にはもちろん興味があったが,作曲とどう結びつけるかに頭がいかず迷っている時,オランダに立ち寄った日本人の友人からペルトの存在を知ったのが1992年。それから首を突っ込んでみると,欧米にいるわいるわの純正律系作曲家。それらに勇気づけられ,日本で初めて出した純正律のCDが1994年だった。

無調的現代音楽の巨匠,J・ケージが死んだのは1992年。日本での大御所,武満さんは1996年に亡くなった。今,日本の現代音楽は支柱を失い,揺れ動いているように見える。1976年にペルトらによって死亡宣告を突きつけられた平均律無調音楽は,今やっと日本でも再考の時期に入っている。

私は去年の末から邦楽の世界にのめりこみ,今,激しく旋法での作曲にいそしんでいる。ひびきとメロディの再構築である。

黒木朋興のコラム

「純正律」という呼称について

 
 ドの音が鳴る弦を1/2に分けるとオクターヴ上のド、2/3に分けるとソ、3/4でファ、4/5でミが得られ、これら純正律の音程で和音をつくると極めてきれいな響きが得られるというのは、自然倍音列という現象によって説明することができる。ただ、この自然倍音列という現象とそこから得られる純正律とは、言ってしまえば、単なる物理現象にすぎない。重要なのはこの現象を前に、様々な人がそれぞれに多種多様な音文化をつくり上げてきたということだろう。
 その中でもヨーロッパは、世界で唯一、和声の効果を存分に活かした音楽を築き上げ、そしてそのための理論として調性システムを完成させた、と言われる。しかしそのヨーロッパといえども、地域が違い言葉が違えば同じド・ミ・ソの和音を前にしても考えることが微妙に違うようだ。例えば純正律という表現をドイツ語・英語・フランス語で調べてみると、微妙な言い回しの違いの中にそれぞれのお国柄を感じること ができる。ここではフランス語のケースを中心に、その微妙な違いについて考えてみ たい。

 早速、平凡社の『音楽大事典』で〈純正律〉の項を引いてみよう。

 ――純正律 じゅんせいりつ just intonation[英]、reine Stimmung、 naturliche Stimmung[独] (フランス語では直接これにあたる言葉はなく、「アリストクセノス音階」gamme d’Aristoxene、または「ツァルリーノ音階」gamme de Zarlinoなどと呼ぶ) 純正調とも言う〈……〉

 アリストクセノスにしてもツァルリーノにしても音楽理論家の名前なのだから、これらのフランス語は彼らの案出した音階という意味であり、従って純正律に正確に対応した表現であるとは言い難い。では本当に、フランス語に純正律を指す表現がまったくないかと言えば、必ずしもそうとは言えない。

 例えば、僕が1998年の夏に、パリのラジオ・フランスの中にあるINA-GRMというミュージック・コンクレートのスタジオで開催された作曲の講習会に参加したときのことである。僕がスタジオで、C=1/1、D=9/8、E=5/4、F=4/3、G=3/2、A=5/3、B=15/8、C=2/1という、純正律を振動数の比で表した表を眺めながらいろいろ思案していると、エマニュエル・ドゥリュティという、コンセルヴァトワール・スュペリユールの作曲科に籍を置く当時22歳の若い作曲家が僕の手元を覗き込み、”pas temperee”と呟いたのだ。つまり生のままの、調整[temper]していない(ずらしていない)音階という意味であろう。

 そこで「ドイツ語ではreine Stimmung[純粋音階]というけど、フランス語ではこれに対応する表現がないみたいだね」と聞いてみると、「そんなことないよ。gamme pure[純粋音階]とかtemperament pur[純粋整律]とか、みんな言うよ」という答が返ってきた。「だって辞書にgamme de Zarlinoとかgamme d’Aristoxeneとしか載っていないよ」と言うと、彼は目を丸くしていた。どうやらそういう表現を知らないようなのだ。

 数日後、今度は50歳を過ぎたと思しき、やはりコンセルヴァトワール・スュペリユールの作曲科の教授でもあるヤン・ジェスランに「英語でjust intonation、ドイツ語でreine Stimmungというのがありますよね。フランス語では何というのですか」と聞いてみたところ、「えーと、確か、juste, juste……」と言って答に詰まってしまった。もちろん、彼にしたところでメルセンヌやラモーの国、フランスが誇る最上級の音楽学校で作曲を教える人物である。純正律という現象を知らないわけではないのだ。
 もちろん、彼らの用語に関する混乱ぶりを勉強不足のせいにしてしまうことはできないだろう。

 しかしフランス人の作曲家が「純正律」という表現を知らなかったとしても、それは決して彼らの勉強不足のせいではない。フランス語の音楽事典やテンペラメントを扱った学術書を見てみれば、既にそこからして言葉が一定していないのである。

 まずマルク・オネゲル編集の『音楽事典:音楽の科学』(1976)を引いてみると、「ピュタゴラスシステムSysteme pythagoricien」「調整されたシステムSysteme tempere」の項に続き、「ツァルリーノシステムSysteme zarlinien」という項が見つかる。ここでは「G.ツァルリーノがこのシステムを開発したのではないが、これが広く用いられるようになったことに関しては多大なる貢献をしている。その主要な特徴は、ピュタゴラスの長3度(81/64)を倍音列のなかの長3度(5/4)に置き換えたことにあり、3つの音(ド-ミ-ソ=4/5/6)による協和音の可能性に道を開いた……」と説明されている。また「フランスでは物理学者の音階、ドイツでは倍音システムの音階と呼ばれている」という記述があることも興味深い。『音楽ラルース』(1987/1993) では、テンペラメントの項の中で、「平均律le temperament egal」、「ピュタゴラ ス整律le temperament pythagoricien」に続き、「ツァルリーノ整律、あるいは 《不等分律》les temperaments zarliniens, dits《inegaux》」として扱われている。
 やはりここでも5/4の3度の重要性が強調されているが、les temperamentsという風に 複数形であることからも察せられるように、中全音律やキルンベルガー整律などの古典整律の説明もこの項の中でなされている。

 次に学術書を見てみよう。ピエール=イヴ・アスランの『音楽とテンペラメント』(1985)では、ピュタゴラス律を「ピュタゴラスシステム」として説明し、純正律は「英語の《just intonation》からの訳語である」という断り書き付きで《intonations pures》としている。ジャン・ラタールの『音楽における音階とテンペラメント』(1988)では、やはりそれぞれ「ピュタゴラスの音階gamme de Pythagore」、「ツァルリーノの音階gamme de Zarlin」と呼ばれているのだが、「自然音程 Intervalles naturels」という言葉に「正確なjus-tesあるいは純粋なpurs [ 音階]とも呼ばれている」という但し書きがついている。英語、ドイツ語からの影響であろう。そしてドミニク・ドゥヴィの『音楽のテンペラメント』(1990)では、ピュタゴラス律を「ピュタゴラスシステム」としているのは前述の書物と同様だが、純正律には「自然音階gammenature-lle」という言葉が当てられており、箇所によっては括弧をつけて英語のjust intonationという言葉が添えられている。

 確かにツァルリーノは長3度(5/4)の可能性を強調してはいるが、彼の時代ではハーモニーといえばまだ音階論の域を出ず、それが1度-3度-5度などによる和音のことを意味するようなるのは、17世紀にメルセンヌやデカルトらが自然倍音を発見し、18世紀初頭にかけてソヴールなどの物理学者が音響分析を行い、そしてそれらの研究の成果を背景としてラモーが数々の和声論を執筆する18世紀以降であることを考えれば、 純正律が〈科学的〉に理論付けされ実用化されたのは18世紀初頭であると言えよう。
その意味で、ドゥヴィが純正律に「自然音階」という用語を当てているのは、「自然倍音harmoniques naturels」との関連であり、適切な選択であると言えよう。

 つまり純正律はツァルリーノではなく、18世紀の物理学者達のもとで和声論とともに花開いた音階なのである。

*

 自然倍音という現象はデカルトとメルセンヌが17世紀に発見した、と一般に言われる。ではそれ以前の人々の耳に倍音が聞こえていなかったのか、と言われればそうではないだろう。しかし中世の大学で自由7科の1つとして研究された音楽とは、歌声や楽器の音など我々が実際に耳にする音楽というよりも、ムシカ・ムンダーナ(musica mundana)やムシカ・セレスティス(musica celestis)という世界や天体の秩序のことであり、すなわち耳に聞こえない音楽のことだったということに注意したい。

 もちろん、耳に聞こえる音楽文化がなかったということではなく、教会にも宮廷にもそれなりの音楽が培われていたのだが、ここで重要なのは中世の諸技芸は〈神〉に対する近さによって厳密に階層分けされており、耳に聞こえる音楽は、聖歌を除き、一般に低い位置に貶められていたということだ。つまり中世の学者にとって重要だったのは、作曲したり演奏すること以上に宇宙を知ることだったのだから、倍音という実際の音響現象は二次的なことにすぎなかったのである。それに対してデカルトやメルセンヌといった哲学者(=科学者)の功績は、耳に聞こえる音響現象を学術的な議論の爼上に上げたことであり、自然倍音の発見ということもそのような知的環境の変化という相のもとに捉えるべきであろう。

 つまり、実際には耳に聞こえない音楽を議論にする以上、倍音現象に注意を払わなくても全く問題はないわけだし、具体的な音響現象を観察し始めた以上、倍音が議論の対象として浮上してくるというわけだ。またデカルトの代表的な著作『方法序説』が、当時の学術書としては極めて異例なことにラテン語ではなくフランス語で書かれているということも思い出しておこう。それまで真理に至るためにはラテン語を身に付け論理学や修辞学を学ばなければならないとされていたのに対し、デカルトは〈理性〉を正しく導いていけばフランス語でも十分真理を理解できると考えたのだ。デカルトが〈近代=現代哲学〉の父と言われる由縁である。

 それまで教会や大学の中だけで追求されてきた真理を広く民衆に開くきっかけを作り、音楽を机上の論理から人間の感覚に快を与えるものへと開放した、と言えば聞こえは良いが、しかしこのデカルト哲学最大の問題点は、22歳の彼が『音楽提要』において既に言明しているように、「感覚は絶えず欺かれる」としていたことにある。デカルトの生きた17世紀とは、〈この世のすべては疑わしい〉という懐疑主義で理論武装をしたリベルタン(自由思想家)達が〈神〉の存在を辛辣にあざ笑った時代であり、彼の有名な「コギト・エルゴ・スム(我思ウ、故ニ我アリ)」とは、全てが疑わしいこの世における唯一確実な真理なのだし、そして何よりも〈神〉の存在証明だったのだ。

 そのような真理に至る彼の思索の道程において「感覚は絶えず欺かれる」という台詞は、リベルタン(=懐疑主義者)達への理論的な防御装置として機能する。つまり、我々は常に欺かれているのだから全てが疑わしく思えてしまうのも当然のことだ、現に学者達は大学の研究室の中で誤謬に継ぐ誤謬を重ねてきたではないか、だからこそ〈理性〉の光を誤謬に満ちた世界に当てることによって確実な真理に至ることが大切なのだ、とデカルトは説いたのである(デカルト自身の考えというより、むしろ後のデカルト主義が掲げた根本原理であると言ったほう良いだろう)。デカルトは確かに大学の研究室から人間の感覚へと音楽を開放しはしたが、その感覚を全面的に信用したのではなく、具体的な視覚や聴覚の上位に新たなる形而上学的概念を設定したのだ。
 つまり物事はただ見たり聞いたりするだけではなく、〈魂〉で感じとらなければならない、ということだ。そしてこの〈魂〉に宿り人間を正しく導いていくものこそが、〈神〉が人間に与えてくれた〈理性〉なのである。

 モノコルドと呼ばれる弦が1本だけの楽器がある。楽器と言っても、演奏用ではなく音程比の実験のためのものだった。中世の頃から使われてはいたが、自然倍音の発見に続く17世紀から18世紀にかけての時代において、物理学者達はこの楽器に改良を加え、実験室の中での自然倍音の分析に心血を注ぐことになる。例えば、音響学の基礎を築いたと言われるソヴールが有名だろう。やがて、ジャン=フィリップ・ラモーが現れる。

 一般に〈光の世紀〉と称されるこの時代において、彼は独自の和声論を展開しフランス和声学の礎を築くとことなる。他の物理学者と同様、ラモーの仕事においても倍音列の分析は重要であり、当然、彼は、現在純正律と呼ばれるシステムについては熟知していた。また1726年には「変化記号が違えば、音の間隔が様々に違ってくる印象を受ける、という指摘をするのは好ましいことである」と言っているのだから、少なくともこの時点ではまさに不等分律の推奨者であったのだ。

 ところが1737年の著作において彼の関心がモノコルドによる倍音分析から和声進行のほうへ移っていくのに伴い、こともあろうに平均律支持を表明するに至ってしまう。
どういうことなのだろうか。

 ただ1つの音を対象にしてその倍音列をいくら観察・分析したとしても、それはあくまでも音響の研究なのであり、実際の曲作り、つまり音をどのように組み合わせ和声を進行させていくかということに対しては、距離があることは否めない。だいたい倍音を観察するにしても、雑音のしない実験室において均質な材質からなる良質な金属弦を響かせて行われ、更にそのために使われるモノコルドにしたところであくまでも実験用の楽器であり実際の演奏に用いられることはないのだ。また何よりも純正律では使える和音が限られていることを考えても、実用向きではなくあくまでも実験室の中だけの音階である、という感があったことは否定できない。

 だから興味の中心を和声の成り立ちから具体的な和声進行に移していったラモーが、純正律ではなくより実用的なテンペラメントを求めたというのも納得のできることではあるだろう。

 以上からすれば、ラモーは1737年にかけて思想上の大転回をした、という解釈も可能だ。しかし、実のところ、ラモーの側からすれば回心したつもりなどこれっぽっちもなかったのではないだろうか。つまり、彼の思想には断固とした連続性を見いだすことができるのだ。それを一言で言えば、一見複雑な現象に見える音楽を理性的な秩序のもとに体系付けようとする意志であったと言えるだろう。

 つまりデカルト主義者を標榜するラモーにとって、自然現象は全て理路整然とした幾何学的な体系に基づいているべきものであり、しかもその体系は数学でもって解析できなければならない。

 ここで、Natureという言葉には〈自然〉という意味と同時に〈本質〉という意味があることに注意したい。〈本質〉とは目の前に広がる風景のことではなく、〈神〉が取り決めた秩序のことだ。たとえ倍音列から得られる音階が不等分なものであろうと、それはあくまでも見せかけの〈自然〉にしかずぎず、〈本当の自然〉は〈目に見えな
い〉ところにあるのであり、そこは理路整然とした幾何学的な世界なのだから、当然平均律こそがその〈自然〉をものの見事に表象している、ということになる。そしてラモーにとって、音楽こそがこの数の秩序が統べる理想の世界を最も良く体現している芸術なのであり、音楽はこの世の知性の全てを握る芸術とならなければならない。

 もちろん、この時代においては技術的に現在のような正確な平均律の調律は不可能であり、それはあくまでも理想の領域にある、ということはつまり「絵に描いた餅」にしかすぎなかったということを言い添えておく。

 音響現象こそ自然の中に刻み込まれた幾何学に他ならない、というラモーの主張は、やがて、数学という学問が他の科学の基礎となっているように、他の諸芸術に対して基盤となるべき法則を提供するのは、その数学的理性を最も体現する音楽に他ならない、という見解にたどり着く。更にいえば、理論面での説得力を有すると同時に感覚に訴えかけることもできる音楽は、数学を凌駕し、すべての科学の規範となるべきである、という一種「神学」的な見解にも繋がりうることを指摘しておきたい。

 そしてラモーは、バス・フォンダモンタルと和音転回の理論の確立により、旋律をはじめとするすべての音楽現象を独自の「幾何学的」和声体系に還元し、近代和声学の礎を築くのである。

 このような和声学はやがて19世紀のドイツに受け継がれ、リーマンが機能和声の理論を確立する。

 一方フランスはこの時期、音楽に関してはいわゆる停滞期に入るのに対し、さらにドイツでは、医師、生理学者、物理学者の肩書きを持つヘルムホルツが『音感覚論─音楽理論のための生理学的基礎』(1863)を記すに到る。ヘルムホルツはこの著作の中でreine Stimmung[純正律]の美しさの重要性を強調しているわけだが、彼の弟子には「純正調オルガン」を作成した田中正造氏がいるということを指摘しておく。
このヘルムホルツの仕事を受け継ぐのが、『諸民族の音階』(1885)という書物によりセント法を世に広め民族音楽学に多大なる功績を残したイギリス人、ジョン=アレクサンダー・エリスである。彼の功績はヘルムホルツの著作を英訳した(1875)ことにあるわけだが、特に増補改訂第2版(1885)はより多くの世界に広まり、現在の日本においても「調律技術者の必携書」として大きな影響力を保ち続けている。

 さて、このエリスであるが、彼はこのreine Stimmung[純正律]に対して、just intonationという訳語を当てている。ここで、フランス語の学術書において純正律を指すintonations puresやgamme naturelleという表現に英語のjust intonationのことであるという但し書きが付いていたことを思い起こしておこう。すなわち、自然倍音列という現象自体は17~18世紀のフランスにおいて綿密に観察されたものであり、その意味でメルセンヌ、ラモーといったフランス人の手によって純正律研究の礎が築かれたことに疑いはないが、純正律という言葉自体は19世紀のドイツで脚光を浴び、その後ドイツ語の著作の英訳を通じて世界に広まった、ということが言えるのである。

 フランスから発し、ドイツ、イギリスを通じて世界に広まるというこの図式に関して言えば、純正律の問題に加えて、「絶対音楽」の理念について語っておくことも決して無意味なことではないだろう。簡単に言えば、西洋キリスト教文化においては長い間、音楽をあくまでも詩に従属したジャンルと見なしていたのに対し、そこから
「言葉=テクスト」から切り離し独立したジャンルと認めようと言うのが「絶対音楽」の理念である。既に見たように、ラモーが音楽とその和声論にすべての学芸の規範となるべき法則を見出していたことを考えれば、そこに音楽の自律という「絶対音楽」の理念の萌芽を見て取ることも可能だろう。しかし彼が最も作曲に心血を注いだのは「叙情悲劇」というフランス固有のオペラであった。そしてこの「叙情悲劇」に対立する概念がラシーヌに代表される「古典悲劇」であることを考えれば、ラモーの活動はあくまでも文学の領域に留まるものと見なされる、ということを指摘しておく。

 いずれにせよ、17~18世紀にフランスで培われた音楽文化が、現在の我々のもとに届くには、1回、ドイツを経由しなければならなかったのである。

(完)

ミーメーシスについて

 ミーメーシスとは何か、という話をします。一見音楽に関係ないかのように思われるかも知れませんが、近代以前の西洋芸術のあり方を理解するためには、是非とも知っておかなければならないことと考えるからです。端的に言えば、ミーメーシスとはギリシア語で「模倣」という意味です。と、こう日本語で訳語を当てると、本物に対して紛い物みたいな感じがして、否定的な印象を拭い去ることが出来ませんが、ミーメーシスとは単なるコピー=複写ではなく、「本質的なるものの再現」と言った方が良いでしょう。更に、芸術がミーメーシスの原理に基づくという時、芸術創作とは「より真なるものをこの世に出現させるための営為」ということなります。
 この概念はプラトンやアリストテレスの哲学の中でも重要な位置を占めますし、また西洋人が西洋の伝統という時、古代ギリシアまで溯って考えることが普通なのですが、ここでは古代ギリシア・ローマ文明と現在の西洋文明の間には断絶があるという立場から、あくまでもキリスト教文明を中心に据えて話を進めることにします。もちろんキリスト教に対するギリシア哲学の影響を認めないというわけではありません。

 キリスト教思想というのは、基本的に「あの世」と「この世」という厳密な二項対立を想定している、と言っても過言ではないでしょう。当然、「この世」とは我々人間が住んでいるこの世界のことであり、「あの世」とは神の統べる世界のことです。
 気を付けて欲しいのは、日本語で「あの世」と言えば魑魅魍魎の跋扈する何だか妖しげな世界のことを思い浮かべる人も多いことかとは思いますが、キリスト教にとっての「あの世」とは物事が理想的なまでに理路整然としてある「本質」の世界です。キリスト教の神とは、ロゴス=理性・言葉の神であることを思い出しておきましょう。
 そして芸術の役割とは、「あの世」の理想的な美を「この世」の人々に提示することなのです。あるいはそのような美を「この世」において「再現」しようと務めることに芸術の価値があるということでもあります。

 でも一体この「本質」とはなんでしょう?ここではbe動詞のことを考えてみましょう。そもそもbeとはどういう意味でしょうか?まず最初に挙げられるのが「いる・ある」という意味です。例えばThere is a pen.(ペンがあります。)という例文が考えられます。つまりexistenceの意味であり、この語は「存在」とか時には「実存」とか訳されます。それに対して、This is a pen. のbeはどういう意味でしょう?
 多くの人が「です」と答えるのではないでしょうか?学校でそう教わるのですから仕方がないのですが、かなり不適切な訳であると思っています。では何かと言えば、このbeはイコールなのです。ですからこの文は「これ=ペン」ということになり、これを普段我々が使っている日本語で言うと「これはペンです。」あるいは「これはペン。」という意味になるというわけです。さて、このbeはラテン語で何に当たるかというと、esseになります。そしてこのの名詞形がessenceであり、つまり「本質」 です。この「本質」目指してイコールで結んでいく論理の体系のことを神学といい、 また暗喩という文彩はイコール関係に基づくレトリックだと言えましょう。

 「この世」は不完全です。ですが、というかだからこそ、学問なり芸術は、たとえ手にしているのが不完全な材料ばかりだとしても、それをどうにかしてでも組み合わせて「本質」の世界へと迫らなければなりません。つまり「この世」と「あの世」の間のイコール関係、あるいは照応関係を探る営みこそがミーメーシスであると言えましょう。

 では次にこの2つの意味が混同されて用いられた場合に引き起こされる問題について考えてみましょう。
 例えば、幽霊やUFOがいるかいないか、という議論があって、テレヴィなどでも賛成派と反対派に別れて論争を繰り広げる、といった番組が時々放映されます。しかし、ほとんど言って良いほど、この手の議論は決着がつかず、終いには喧嘩になって終わってしまいます。口に泡を飛ばしている当事者の方のほとんどが意識していないこととは思いますが、このような場面で生じる議論のずれといったことは、まさしく「本質」と「実存」の間の問題なのです。つまり、「いる」という賛成派が「本質」の、対し て「いない」という反対派は「実存」の議論をしている、ということです。
 賛成派の人々は「いる」ことの根拠として、「この私が直接見た、あるいは直に体験した」ということを挙げます。そしてそのことの証明のために、写真を取ったりヴィデオを見せたりします。そうして「自分が体験したこと」を熱く説明します。この説明とはどういうことなのかについて考えてみましょう。これは「自分が体験したこと」という事実なり真理をイコールで繋いでいくという行為である、とは言えないでしょうか。例えば、現実に起こったことと写真なりヴィデオの内容が完全にイコールで結ばれるのなら、証明は成功したことになります。ところが反対派は写真なりヴィデオなりはあくまでも複製だからと言って、つまり二次的なものに過ぎず事実そのものではないと言って否定します。時には「インチキだ!」とか、「後から手を加えてあるはずだ!」とかも言ったりします。ですから賛成派は今度は言葉を使って懸命に、修正などは一切していないことを、自分は嘘などついてはいないと言い出します。すなわち、彼等の説明においてはイコールの整合性が焦点となっているわけです。その意味で、彼等は「本質」の議論をしていることになります。対して、反対派は何を言われても、何を見せられても、信じません。何故なら彼等は端からイコールの部分など見ていないからです。彼等が問題にしているのはあくまでも「実存」で、そんな「いかがわしいもの」は最初から「実存」しないと言っているのです。最終的に賛成派は「オレは嘘などついていない。このオレが信じられないのか!」などと言い始めます。
 対して反対派は「自分がうまく証明できなかったことを棚にあげて、何を言い出すか!」と切り返します。こうなってくると興奮が興奮を刺激し、単なる罵り合いへと落ちいきます。
 同じテーマを議論しているにもかかわらず、片方は「本質」の、そしてもう片方は「実存」の話をしているのでまったく議論は噛み合わないのですが、深刻なのは、多くの場合、当事者達がこのずれを意識していないということです。これが幽霊とか宇宙人に関する議論であればまだ可愛いものでしょう。しかし「民主主義」とか「神」とかであったらどうでしょうか?笑い事ではすみません。何故なら未だもって人類は、この種のテーマで議論をこじらせ、時には殺し合いまでしてしまうからです。

 西洋の言語の特長は、この「本質」と「実存」を同じ動詞でもって表せることだ、と言っても過言ではないでしょう。このことは神学を始め、哲学・文学・芸術など、キリスト教文化のすべての基礎となっています。対して、我々の日本語には、イコールの意味を持つ動詞はありません。実は旧約聖書の言葉、ヘブライ語にもやはりない そうです。ここで新約聖書はイエスの死後、ギリシアの信徒によってギリシア語で書かれた、という事実を確認しておきましょう。つまりイコールの意味の動詞を持たないヘブライの民の宗教とそれのあるギリシア哲学の出会いこそが、ヨーロッパキリスト教文化の礎を形成した、ということです。
 今までの議論をまとめれば、「本質」の探求とは「あの世」と「この世」を「=」 で繋いでいくことなのに対し、「実存」のほうは「いまここにある」物事だけに焦点 をあて、この「ある」ということがどういうことかを分析していくことだ、と言えるでしょう。
 「『実存』は『本質』に先行する」。言わずと知れたサルトルの有名な台詞です。実存主義が流行った時代には、様々な解釈が試みられ、それぞれがそれぞれの思いをこのフレーズに投影していったようではありますが(それが必ずしも悪いことではないと思います)、今まで述べてきた「本質」と「実存」の話にこの台詞をおいてみれば、サルトルの真意が何とはなしに見えてくるでしょう。つまり、「神」を中心に据えた思想体系への彼特有の反抗の念がこの台詞には込められている、ということです。
 「神」の国にある筈の理路整然とした美しい「真理」、あるいは、「あの世」を持ち出すのがいかがわしいというのなら今ここ目の前にはないけれどどこかには必ずあるだろう完璧な「美」、これらを模倣しようというのがミーメーシスの原理であるということは前々回見た通りです。モダン以前における芸術の役割とはまさにこの「理想」をこの世の人々に提示することであった、ということも良いでしょう。そして、この「理想」と「現実」の従属関係を断ち切り、ひたすら今ここ目の前にある物質に焦点を当て、そのある姿を分析していくのが実存主義ということになります。また、理想の美を目指すのではなく、自らの感性を便りにこれらの物質を組み合わせ作品を創っていこうというのが19世紀末フランス象徴主義以降のモダン芸術のあり方でもあるわけです。
 ただし気を付けておきたいのは、このようなミーメーシスの原理を超克しようとする発想は、実のところ、18世紀末から19世紀初頭にかけて初期ドイツロマン主義者達の間で夢見られたということです(もちろんこの発想の源流はフランス18世紀ルソーや17世紀のボワローまで溯ることも可能でしょうが)。彼等は当時盛んに作曲された交響曲の響きにその夢を投影します。あるいは彼等の理論は純粋器楽作品の開花という実際の現象に支えられている、とも言えるでしょう。当然、ここで俎上に上がっているのは、「絶対音楽の理念」のことです。「絶対音楽」とか「純音楽」とかいうと、人それぞれにいろいろと思うところもあるでしょうし、実際いろんな解釈が可能だとは思いますが、最も重要なのは、この理念が芸術をミーメーシスの原理から切り離し解放しようとした、ということです。こう書くと何やら難しそうですが、何のことはない、音を「神」、宇宙、真理や感情など他の概念の比喩・暗喩として捉えるのではなく、音を音として、モノをモノとして扱う、ということです。僕らのようにキリスト教徒でないものから見れば当たり前に思えることですが、長い間西洋キリスト教の世界では、芸術の役割とは真理の模倣(ミーメーシス)であり、このことが彼等の文化の強力な特徴をなしてきたということを再度確認しておきましょう。
 ここで「絶対音楽」の唱道者として名高いハンスリックの一節を引用してみたいと思います。

「一枚の歴史画においてあらゆる赤が喜びを意味したり、あらゆる白が潔白を意味するとは限らぬと同様。一つの交響曲においてすべての変イ長調が熱中的気分を、すべてのロ短調が厭人的な気分をよび起こすというわけではない。あらゆる三和音が満足をあらゆる減七和音が絶望をよび起こすというわけではない」(『音楽美論』、渡辺護訳、pp.42-3.)

 例えば「メジャーキーは〈楽しい感じ〉、マイナーキーは〈悲しい感じ〉がするという意見があるが、どうかと思う。メジャーキーはメジャーキーを、マイナーキーはマイナーキーを表現しているだけなんだ」と言う人がいますが、つまり、このような見解はまさに「絶対音楽」の延長線上にあるものだと言えるのです。もちろんここでは、この見解が当たっているか、間違っているかということを問題にしているわけではないということを言い添えておきます。

(続く)

「贋作・盗作音楽夜話」出版記念の会

日時 : 2010年6月5日土曜日午後2時?4時
会場 : 中華ダイニング「満月廬」(新宿末広亭前)

日頃何かと、ご指導ご支援頂き誠にありがたく、感謝申し上げます。
さて、NPO法人 純正律音楽研究会が下記により、玉木宏樹の「贋作・盗作音楽夜話」出版記念パーティを開催する運びとなりました。
ご多忙中のところ恐縮ですが、ご出席賜りたくご案内申し上げます。

            [記]
          日時 : 2010年6月5日土曜日午後2時?4時
           会場 : 中華ダイニング「満月廬」(新宿末広亭前)
        新宿区新宿3-10-4 TEL03-3358-0807
    丸の内線・副都心線・都営新宿線
    新宿三丁目駅(C3出口)1分
                  会費 : 6,500円(本代含む)

「贋作・盗作音楽夜話」出版記念の会開催

日頃何かと、ご指導ご支援頂き誠にありがたく、感謝申し上げます。

さて、NPO法人 純正律音楽研究会が下記により、玉木宏樹
「贋作・盗作音楽夜話」出版記念パーティを開催する運びとなりました。
ご多忙中のところ恐縮ですが、ご出席賜りたくご案内申し上げます。

 [記]

  日時 : 2010年6月5日土曜日午後2時〜4

            会場 : 中華ダイニング「満月廬」(新宿末広亭前)

新宿区新宿3-10-4 TEL03-3358-0807

丸の内線・副都心線・都営新宿線

新宿三丁目駅(C3出口)1分

会費 : 6,500円(本代含む)

 ★ ミニライブ

玉木宏樹のヴァイオリンと吉原佐知子さんのお箏で

「お箏とヴァイオリンの純正律音楽」を演奏いたします。

 純正律で日本のメロディをお楽しみ下さい。

★テーブル椅子席ですので、ご出席頂ける方は5月31日までにご予約下さい。

  お問い合わせ
NPO法人 純正律音楽研究会事務局03-3407-3726
mail:puremusic0804@yahoo.co.jp

お琴とヴァイオリンの♪純正律音楽コンサート

開催概要

日程:2010年9月25日(土曜日) 開場;13時30分 開演:14時
出演:吉原佐知子(お箏)・玉木宏樹(ヴァイオリン)
     入場料: 3,500円(会員特別価格3,000円)

箏柱を自由に調整する事によって実現した、お箏とヴァイオリンの
素晴らしく美しいハーモニーをお楽しみ下さい。
会場:;【ラ リール】(地下鉄丸ノ内線 茗荷谷駅 徒歩5分)
     東京都文京区大塚3-21-14 
     (Phone:03-3942-2830)

第15回玉木宏樹の♪都電貸切り純正律音楽コンサート♪

日程:2010年12月23日 木曜日(祝日) 午後2:00発
出演: 三宅美子(ハープ)・玉木宏樹(ヴァイオリン)
料金:¥4,500/1名様 (会員特別価格¥4,000)

特定非営利活動法人 純正律音楽研究会(東京都港区・代表=玉木宏樹)は、
都電荒川線の車両を一車両貸切りで、純正律音楽コンサートを開催致します。  

玉木宏樹の、ヴァイオリンで都電貸切り純正律音楽コンサートを開催します。
初めて純正律音楽に触れてみたいという方や、鉄道ファンの皆様にも
是非ご参加頂きたいと思っております。

当会代表の玉木宏樹(作曲家・ヴァイオリニスト)は、大の鉄道ファンでもあります。
早稲田から下町へ向かう町並みを眺めながらの午後のひととき、
純正律音楽に身と心を委ねてみませんか。 きっと素敵な午後になると思います。

 特定非営利活動法人 純正律音楽研究会(東京都港区・代表=玉木宏樹)は、都電荒川線の車両を一車両貸切りで、純正律音楽コンサートを開催致しております。純正律音楽とは、ウィーン少年合唱団、グレゴリオ聖歌、声明(しょうみょう、お経)・・・これらに共通するのは、美しい、濁りのない響きです。この美しいハーモニーをもとにしたのが純正律音楽と呼ばれるものです。

 今回で15回目となります。今回のゲストは、ハープの三宅美子さんです。初めて純正律音楽に触れてみたいという方や、鉄道ファンの皆様にも是非ご参加頂きたいと思っています。

当会代表の玉木宏樹(作曲家・ヴァイオリニスト)は、大の鉄道ファンでもあります。早稲田から下町へ向かう町並みを眺めながらの午後のひととき、純正律音楽に身と心を委ねてみませんか。きっと素敵な午後になると思います。

開催概要

日程:

 2010年12月23日 木曜日(祝日) 午後2:00発

早稲田出発~三ノ輪橋 都電一車両貸切り50分間の旅

出演: 三宅美子(ハープ)・玉木宏樹(ヴァイオリン)

    料金:¥4,500/1名様 (会員特別価格\4,000)

ご予約:電話=03-3407-3726 Eメール=puremusic0804@yahoo.co.jp

   

    尚、到着後、三ノ輪橋駅近くの「香港楼」にて、玉木宏樹を囲んでの

    懇親会をご用意しております。別途料金(3,500円)になりますが、

    ご参加いただけますと幸いです。

本件に関するお問い合わせ

NPO法人 純正律音楽研究会(担当:相坂)

〒106-0031 東京都港区西麻布2-9-2 電話 03-3407-3726 FAX 03-3797-5640

実践コラム

純正律音楽を実演する際,どの様な方法があり,どうしていくのか。
純正律の実演の仕方をお伝えしていきます。

目次

MIDIによる純正律演奏のすすめ/田向正一

第1回 MIDIについて

本コラムでは,MIDIを用いて純正律を始めとする自然音律で演奏する方法について,これから数回にわたり連載していきます。

MIDIの特徴

MIDIとは,Musical Instrument Digital Interfaceの頭文字を取ったもので,電子楽器の演奏情報を送受信するための世界共通のインタフェース規格です。音楽をPCで聴くためのファイルフォーマットとしても幅広く使われています。

CDオーディオやDVDオーディオなどのようなPCMオーディオフォーマット,あるいは最近流行りのMP3やWMAなどのようなPCMオーディオを効率良く圧縮するためのフォーマットとは異なり,MIDIファイルは「指定した楽器を指定したタイミングで音を出す」といった音楽の演奏情報を格納するフォーマットなので,ファイルサイズが非常にコンパクトになっています。

また,アナログ/ディジタルによる一般的なレコーディング/マスタリングと比較して,MIDIでは音符の修正を始め曲の編集をワープロ感覚で簡単に行えることから,作曲や編曲の補助手段として活用されることもあります。

MIDIで音律を制御する

MIDIに含まれる演奏情報には,生楽器演奏者が奏でる様々な表現を電子楽器上で可能な限り再現できるように,楽譜よりきめ細かな指示が含まれています。 MIDIリセット直後の状態では,平均律で演奏されるようになっていますが,適切な設定を行うことにより,純正律を始めとする自然音律での演奏が可能です。これを実現する方法として,いくつかのバリエーションが存在します。これらの使い方について,実例を提示しながら解説していきます。

サンプルフレーズ

以下は,MIDIを用いて純正律を始めとする自然音律で演奏する方法を説明する目的で作ったフレーズです。


mp3ファイルで再生

まだ音律の設定を行っていないので,当然ながら平均律で演奏されます。今後このMIDIファイルを題材に,いくつかの音律の設定方法を紹介します。お楽しみに。

第2回 音律解説・ピタゴラス音律

前回,MIDIで適切な設定を行うことにより,純正律を始めとする自然音律での演奏が可能であることを述べました。今回は,具体的な方法を論じる前に,これらの音律がどのようなものなのか簡単に解説します。

メロディのための音律

一般に,音楽はメロディ(旋律),ハーモニー(和声),リズム(拍子)の三要素で構成されています。これらのうち,メロディとハーモニーとでは好まれる音律が異なり,メロディにはピタゴラス音律が適しているとされています。この音律は,西洋だけでなく中国では三分損益法,日本では順八逆六という名称で古くから存在しているように,異なる民族において後世に引き継がれています。

ピタゴラス音律とは,純正な完全五度の組み合わせによって音程関係を決定するものです。具体的には,まず基準となる音を決めた上で,その音に対して 3/2の周波数関係となる音を決めます。前回提示した実例に合わせると,基準となる音は“C”であり,その音に対して3/2の周波数関係となる音は“G”となります。

次に“G”の音に対して3/2の周波数関係となる“D”の音が導かれます。なお,オクターブ内に収まるように,適宜オクターブ上げ下げすると良いでしょう。この作業を繰り返すと“A→E→B→F♯”の音が得られます。今度は反対に,基準となる“C”音に対して2/3の周波数関係となる純正な完全五度下の音を決めていくと“F→B♭→E♭→A♭→D♭→G♭”の音が得られます。

ピタゴラス音律

このようにして作られたのが“C”の音を基準としたピタゴラス音律です。下図で隣り合っているすべての音は,純正な完全五度の音程関係となっています。

また,これらの音を音階の順に並べると,以下のようになります。

音階周波数比平均律比
C1同じ
D♭256/243低め
D9/8やや高め
E♭32/27低め
E81/64高め
F4/3僅か低め
F♯729/512高め
G3/2僅か高め
A♭128/81低め
A27/16高め
B♭16/9やや低め
B243/128高め

ピタゴラス音律の音階は,平均律と比較して全音が広く,また半音が狭く構成されているため,この特徴がメロディに独特の味わいを与える効果を持っています。

第3回 音律解説・純正律(その1)

前回解説したピタゴラス音律は,純正な完全五度で構成されていますが,長三度や短三度の音が純正でないため,ハーモニー(和声)向きとは言えません。今回は,ハーモニーに適した音律について話を進めていきます。

ハーモニーのための音律

和音を構成する音の周波数関係が単純な整数比であるとき,純正なハーモニーが得られます。このような考え方で作られた音律を純正律といいます。例えば,ハ長調の曲における主要三和音は,Cコード(C-E-G),Fコード(C-F-A),Gコード(D-G-B)であり,これらの和音を純正に演奏するには,ピタゴラス音律の “E,A,B”の音を若干低めに取る必要があります。これらの音は,前回示したピタゴラス音律の直線上に存在しないので,それぞれの和音が正三角形を成すように“E-,A-,B-”をプロットすると,下記のようになります。

シントニック・コンマ~ピタゴラス音律と純正律の架け橋~

これらの若干低めに取った音のピタゴラス音律との周波数比を検証しましょう。Cコード(C-E-G)の場合,和音を構成する音の周波数関係が1:5/4:3/2であるとき,純正なハーモニーが得られます。ピタゴラス音律の“E”の音の“C”の音との周波数比は81/64なので“E-”の音はピタゴラス音律の“E”の音と比較して,81/80倍低いことが導き出されます。Fコード(C-F-A),Gコード(D-G-B)の場合も同様の結果となります。この僅かな比率をシントニック・コンマといいます。

純正律

上記の図を注意深く観察すると,左から右への水平直線上で隣り合っている音はは純正な完全五度,左下から右上への斜め直線上で隣り合っている音は純正な長三度,左上から右下への斜め直線上で隣り合っている音は純正な短三度の音程関係となっていることが分かります。この考えを進めると次のように表現することができ,囲まれた12音によって“C”の音を基準とした純正律が構成されます。これをCチューニング純正律とします。

上記のCチューニング純正律には,ハ短調の曲における主要三和音,Cmコード(C-E♭-G),Fmコード(C-F-A♭),Gmコード(D-G-B♭)も含まれていることが分かります。また,これらの音を音階の順に並べると,以下のようになります。

音階周波数比平均律比
C1同じ
D♭16/15高め
D9/8やや高め
E♭6/5高め
E5/4低め
F4/3僅か低め
F♯45/32やや低め
G3/2僅か高め
A♭8/5高め
A5/3低め
B♭9/5高め
B15/8低め

しかし,これで純正律の音階が完成したと安心してはいけません。例えば,ハ長調の曲におけるDmコード(D-F-A)などを演奏する場合,Cチューニング純正律では音が濁ってしまいます。このような問題の対策について,次回のコラムで解説します。

リスニングコラム

 純正律音楽研究会がお勧めするCDや演奏会、演奏団体をご紹介していきます。

目次

■ CD紹介

Pelecis 《FROM MY HOME》より “Neveretheress”

(TELDEC0630-14654-2)

 その第1回目に登場するのはPelecisという作曲家の作〈Neveretheress〉です。私は自分のホームページ上でPelecisを紹介しながらラトビア人だから読み方は分からないと書いたら東大大学院生から「ペレーツィス」と読むんだとのMailを頂きました。

 さて私がペレーツィスを知ったきっかけは、後々に紹介する予定のポーランドの作曲家でやはり純正律に拘った作品「悲歌のシンフォニー」で300万枚のCDを売り切ったグレツキのピアノ協奏曲の入ったCDを買ったおかげです。グレツキの曲は退屈でしたが、最後におまけのように入っていたペレ―ツィスの「コンチェルティーノ・ブランカ」に私は大衝撃を受け、夜も眠れないほどの興奮の毎日が続きました。この曲は題名通り、ピアノの白鍵だけと弦楽合奏による3楽章構成の全くハ長調だけで一切転調のない、開き直った潔い曲です。

 ところで〈Neveretheress〉は、モスクワ留学時代のルームメイトだったヴァイオリニストのクレーメルのために書かれたソロヴァイオリンとピアノと弦楽合奏のための協奏曲で、30分近く延々と D-Major, D-Minor, つまりニ長調とニ短調だけで構成されます。冒頭から5分くらいから始まるピアノのフレーズはまさに日本人にピッタリのマイナームードで、まさに「ヤラレタ―」というショックが尾を引きつつ感動にひたるというとても個性の強い曲です。おっとっと、ピアノはもちろん純正律に調律されていることは、私のシンセとコンピュータで確認ずみです。

(玉木宏樹)

ROSENBERGS SJUA 『R7』

(DROCD-017)

黒木:スウェーデンのRosenberg(スウェーデンだからローゼンべリと読むのかな)という女声のコーラスを中心にした弦楽器とのアンサンブルです。

玉木:ぼくはクラシックでは北欧関係が大好きで、いろんな作曲家のCDを持っているけれど、中でもスウェーデンのものは少ない。それでも、ラールソンなんていう作曲家はベルクの弟子なのに純正律指向の作曲を残しているし、スウェーデン人があまり音楽をやらないというんじゃないよね。

黒木:クラシックはあまり詳しくないですが、ロック関係では良質なグループが結構ありますよ。

玉木:たとえば?

黒木:サムラマンマスマンナとか、アネクドテンとか。

玉木:ところで、今回のローゼンべリ、ぼくも一度通して聴いたところ、北欧の民謡風な感じとはずいぶん違って、やけにグレゴリアン的というか、ブルガリアンボイス風というか……そんな感じって正しいのかな。

黒木:ブルガリアン風とも言えますね。

玉木:北欧、スウェーデンやノルウェーにはフィドルによく似たヴァイオリン属の民族楽器があるんだけど、その雰囲気がよく感じられて、それも大変面白い。しかし、このバンドは結構キレイにハモり続けているよね。多分、トップソプラノの声質の特徴にみんなが合わせているというか……それから、このトップソプラノ、何かいま話題になっているらしいね。その辺をちょっと説明して下さい。

黒木:坂本龍一が朝日新聞社主催のオペラ『Life』のために連れてきたそうなんです。彼女の声を見出したのはさすがだとは思いますが、このアルバムを聴くと、『Life』だけで帰らせたのはあまりに残念というべきでしょうね。今度は、彼女1人だけでなくて、このグループ全体での日本公演を坂本氏は企画すべきでしょう。そこまでやらなければ本物じゃない。「世界の坂本」が聞いてあきれると言われても仕方がない。そのくらい素晴らしい演奏だと思います。

玉木:彼は、朝日新聞ともケンカするほど根性があるというか、自分勝手なところがあるから、みんなのためを思って行動はしないんで、まあ、当たり前のことでしょう。ところで、肝腎のこのトップソプラノの名前は?。

黒木:スザンヌ・ローゼンバーグです。

玉木:CDの日本でのディストリビュート先は?

黒木:MAレコーディングズですね。

玉木:きいたことないなぁ……一般の店でも売ってる?

黒木:渋谷のタワーレコードとかWAVEとか、ディスクユニオンに行けばあるけど、一般の流通には載っていないと思います。

玉木:じゃあ、地方の人が買うにはどうすればいいわけ?

黒木:直接MAレコーディングズに問い合わせてもらうのが早いでしょう。

【問い合わせ先】
MAレコーディングズ販売 Tel. 03-5276-6803/Fax. 03-5276-5960
〒102-0072 東京都千代田区飯田橋1-12-6-3F(株)マーキュリー内
E-mail: tgmarec@ibm.net
URL : http://www.marecordings.com/

GORECKI 『Three Pieces/Kleines Requiem/Good Night』

指揮Rudolf Werthen、演奏I Fiamminghi-The Orchestra of Flanders-
(TELARK20 CD-80417)

玉木:黒木さんは、あんまりクラシックは強くないよね。

黒木:クラシック音楽は知っていますが、現代の純正律系のものには詳しくないです。

玉木:創刊準備号で紹介したペレーツィスはラトビア人だけど、いま、ポーランドからフィンランドにかけて純正律の嵐が吹きまくっている。で、今日はグレッキというポーランド人の作曲した「ポルカの為の小レクイエム」を……〈玉木、CDをかけながら話す〉グレッキと言えば、「悲歌のシンフォニー」が世界中でミリオンセラーになって有名になったんだけど、今のこの曲の出だしと同じように、同じようなコードばかり使っていて――というか、シンフォニーの場合、淡々とイ短調のモード系が続く。すると、オーケストラは自然に純正律のイ短調になっていく。そこへ心をかきむしるような悲痛なソプラノが登場するわけ。〈曲の冒頭部分は非常に静かに、ヴァイオリンとピアノだけが淡々とシンプルな演奏を続けている〉どう?

黒木:ちょっと単調な気もするけど……。

玉木:そうとも言えるけど、そこがまたいいような、ね。〈曲が単調なので会話が続く〉

玉木:まだ4分か、まだまだかな。

黒木:なんですか?

玉木:まあ、もうちょっとのお楽しみ。さて、ポルカ以外にもマズルカとかポロネーズとか、なぜポーランドの関係の舞曲が多いんだろうね。話は変わって、いま北欧で純正律の嵐が吹き荒れてと言ったよね。その中のラトビアかエストニアかは忘れたけど、全世界に散らばっている亡命者たちが年に1回、祖国へ帰って全員で合唱をやるらしいんだ。NHKで特集があったと人からきいたんだけど、亡命者たちは毎年、1回のイベントのためにすごく練習するらしいんだけど、多分ピアノは使われないと思う。だから、会場は純正律の渦になるはずだよね。黒木:なるほど、一度聴いてみたいもんですね。

玉木:さてもうすぐだ。しばらく聴いてみよう。

〈延々と淡々と続く静けさ〉
 !!!!!!!
 〈突然の大音響〉

玉木&黒木:ワアー!?〈のけぞる二人。玉木、あわててCDの音量を下げる。黒木、妖怪にでも遭ったかのようにおったまげ、次には半狂乱になるほど笑い転げる〉

黒木:なにこれぇ!! すげぇや。面白い。これはすごい!

〈黒木、感嘆詞連発〉

玉木:いったいナニが起こったのか!? 『ひびきジャーナル』を読んでるみなさんにもぜひ一度、この曲を聴いて、初体験の「のけぞり」を味わってもらいたいね。

GENTLE GIANT『in concert』『Out of the woods』

『in concert』(WN CD066)
『Out of the woods』〈the BBC sessions〉(BOJCD018)

黒木:今回は僕の担当なのでロックでいきます。

玉木:僕もロックは、実は大好きだし、日本で初めてロックヴァイオリンをやってるんだよね。

黒木:そうでしたね。じゃ、ジェントル・ジャイアントというバンドを御存知ですか。彼らはイエス、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、E.L.P.などといったバンドと同時期に活躍した、いわゆるプログレなんですけど。

玉木:うーん、今出た名前は全部知ってるし、よく聴いたけど、ジェントル・ジャイアントはどうも網の外のようだったね。

黒木:そこで今回は、このジェントル・ジャイアントをお薦めしたいわけです。特徴といえば、とにかくテクニックがすごかった。それも個人のプレイヤーとしてのテクニックではなく、バンドのアンサンブルとしてのテクニックが尋常じゃない。しかも1人が複数の楽器をこなし、ヴァイオリン、チェロ、ヴィブラフォン、リコーダー、サックス、トランペットまで操ってる。ギター、ベース、キーボード、ドラムなどはメンバー5人全員がほぼ同じレヴェルで演奏でき、ライヴでは全員によるギター、リコーダーやパーカッションアンサンブルを披露していました。何よりも圧巻なのがヴォーカルアンサンブルで、5人がアカペラでばっちりハモっちゃう。はっきり言って、さっきのバンド群の中では問題にならないくらい飛び抜けて上手かった。ただし日本ではほとんど売れなくて、一部のファンにもてはやされるくらいですが……現在では音楽活動をしていないようです。まずは早速、彼ら「ON REFLECTION」という曲を聴いてみましょう。――〈CDをかける〉――これは彼らの馬鹿テクぶりを凝縮したような曲で、スタジオ録音よりもこのライヴヴァージョンの方が面白いですね。と言うか、ライヴで、つまり編集をしないでここまでやれるというのは驚異的。まずリコーダー、チェロ、ヴァイオリン、ヴィブラフォンなどのアンサンブルで始まって、ばっちりハモってるヴォーカルアンサンブル、そして最後に、エレキ楽器によるロックアンサンブルで終わる、と。

玉木:う~ん、うますぎる、器用すぎる、自分達だけが楽しんでる、という印象だねぇ。

黒木:じゃ、今度は同じ曲をBBCのスタジオライヴのヴァージョンで聴いてみましょう――〈今度はスタジオライヴ版をかける〉――最後のロックアンサンブルのところ、ギターとキーボードのパートがひっくり返っているでしょ。基本的に彼らは曲を対位法で作っているので、こういう遊びができるんです。これは編曲を担当していたキーボードのケリー・ミネアの功績なんですけどね。彼はロイヤル・アカデミー音楽院で作曲の学位を取得しているんです。それが何を血迷ったかこんなロックバンドに手を染めてしまったんですね。

玉木:なるほど。

黒木:なぜ彼らがいまいち売れなかったかというと、彼らはどうも音楽的にすごいことをやりさえすれば良いと考えていたらしくて、こういう安直な発想をしちゃったところにあると思うんです。音楽の世界ってのは色々な面でのファッション性が求められると思うんですけど、彼らはそれを無視して音楽だけに走っちゃった。

玉木:僕自身も若い時にそういう考えで失敗を繰り返してるんで、少々耳が痛い。

黒木:でも逆にそういう純粋さみたいものが曲がりなりにもジェントル・ジャイアントというバンドで結実したことがあるという事実、それはそれですごいと思うんです。

Trio Patrekatt『Adam』

(xource/xoucd 119)

――今回のTrio Patrekattは、第1回に続き、またスウェーデンのグループです。というのも、第1回目で紹介したROSENBERGS SJUAのCDでセロを弾いていたミュージシャンがこのグループにも参加しているからです。ROSENBERGS SJUAがきれいなハモった歌声を聞かしてくれていたのに対し、今回のは完全なインストです。

 で、このCD『Adam』で面白いのは、他の2人が弾いているニッケルハルパというスウェーデンの民族楽器です。音色はヴァイオリン、フィドロ系の擦弦楽器ですね。ところが皆川達夫監修『楽器』(マール社、1992)を見てみると、弦楽器のページではなくて機械楽器のページにハーディ・ガーディなんかと一緒に紹介されている。音高を決めるのはハーディ・ガーディと同様に鍵盤を使って機械的に弦を押さえるんですが、弦を擦るのにはハーディ・ガーディが機械になっているのに対し、ニッケルハルパはヴァイオリンのように弓を使わなければならないんです。

 ちょっと聞く限りはフィドロのように聞こえるんですが、よく聞いてみると、鍵盤を押さえるかちゃかちゃいう音が入っています。つまりフレットレスじゃないってことです。ヴァイオリンみたいにフレットレスの楽器は純正律に向いていて、ギターやピアノみたいにフレットがあったりして音高が固定されている楽器は純正律に向かないって信じている人、割と多いんですけど、この程度の曲をやるんだったら、別に無理して平均律に調律しなくても、使う調を限定してやれば十分ハモリのきれいな音楽ができるってことが言えると思います。

 純正律では音楽的に幼稚なものしかできないって迷信がありますけど、この程度で十分だと思うし、僕なんかからすれば、このCDでも音楽的に随分高度だなって感じるんですよ。だったらね、巷に流れている音楽の9割以上が工夫次第でハモリを追求できると考えています。

 何もドデカをことさらに悪く言う必要もないとは思いますが、ドデカをやるんじゃないんだったら、別に無理して平均律にしておく必要なんかないのではないでしょうか。音大の人ってなんか「複雑な転調すること=音楽的に高度」って考えてるような気がするんですけど、僕はね、転調なんかしなくたって十分面白い音楽作れると思うんです。

 別に転調しちゃいけないなんて言っているわけじゃないです。だいたい僕はボサノバ好きですから。

 個人的に12曲目の「FARDEN」が好きです。倍音がきれいに響いています。この奏法については玉木さんにコメントをもらいたいと思います。

(黒木)

※M・AレコーディングスのHPは:www.marecordings.com

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(玉木のコメント)
 あの楽器は実に不思議で、見事な純正律でハモっています。調律は多分、ソレソレのGチューニングだと思います。コード進行が単純な分、とてもスリリングなリズムの速奏きフレーズが感動ものです。No.12の曲の奏法は、ヴァイオリンの駒の近くを奏くことによって、高倍音、時にはガラスを引っ掻いたような音も出ます。これはイタリア語でスル・ポンティチェルロといい、我々は「スルポン」と呼んでいます。現代音楽に多く使われています。多分、ギターにも、特にエレキの場合なんかに、似た奏法があったような気がしていますが。

libera『luminosa』

(WPCS-11100)

 今のところ、私がセミナーを開いた時、純正律の代表例としていの一番にかけるCDがこの1枚、リベラの『ルミノーサ』だ。天国的にハモるボーイソプラノの美しさはウィーン少年合唱団を優にしのぎ、同じ英国のボーイズ・エア・コワイヤよりも純粋にきこえる。リベラの1枚目ももちろん素晴らしかったが、この1枚は、クラシックの名曲を素材にしていることともあいまって、非常に格調が高い。
 また、1枚目では分からなかったリベラの正体が見えてきた。プロジェクト・リーダーは作曲家のロバート・プライズマン(1952~)。もともとオルガニストとして、協会音楽に長年関わってきた人。彼のもとに集まった少年の平均年齢は12歳とのことだが、その音楽性は12歳なんてものではない。彼らの純粋な発声でこそ得られる高い音楽性は、世俗に染まった大人たちには真似の出来ない世界でもあるだろう。

 クラシックを素材にしたと書いたが、あくまで素材であり、いわゆる編曲なんかではない。いろんな編曲シーンを経験した私でさえ、ドギモを抜かれた、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の「水族館」。リベラの歌声で初めて「水族館」の神秘が味わえる。
 CDのタイトル曲でもある「ルミノーサ(聖なる光)」は、なんと、ドビュッシーの「月の光」。私自身、何度も編曲をしているが、コーラス版は思い付きもしなかった。というか、こんな程度の高い純度のコーラスは、日本には存在しないからだ。しかし、最近、女声コーラスもノンビブラートの人達が増えており、そのうち、リベラ級のコーラスの誕生も近いかもしれない。

RAMEAU『Orchestral Suites Vol.2』

(NAXOS/8.553746)

 バッハと同時代のフランスの作曲家、ラモーの「アナクレオン」組曲を紹介します。音楽史上ではたいへん有名な人だが、日本で演奏されることは滅多に無い。私とて、子供の時、スズキ教則本でラモーの「タンブーラン」を奏いて以来、ときたまFMでクラヴサン曲集を聴いたくらいで詳しくはない。そんな折、久し振りにCD屋を覗いたら、NAXOSシリーズが、なんと1枚780円に値下げになっており、その中にラモーのCDがあったので買ってきた。

 ラモーは大バッハの2年先に生まれ、バッハよりずっと長生きした。これはオーケストラの編曲だが、金管あり、ピッコロありの非常に華やかで分かり易い曲。タンブーランが非常に効果的で、けっこう下世話な風情もある。こういう曲や、同時代のヴィヴァルディを聴くにつれ、大バッハのヘンクツ時代遅れ、ゴリゴリ、コンサバぶりがよく分かる。
 演奏者の正体はよく分からないが、いうまでもなく、純正律を基にした演奏である。安い掘り出しモノの1点として、CD屋を覗かれた折にはお薦めの1枚である。

(玉木)

『Carmina Burana――Medieval Poems and Songs』

(NAXOS/8.554837)

 アルヴォ・ペルトのCDについては別の項で紹介しているので、レビューでは、図の2枚を紹介したい。まず『カルミナ・ブラーナ』。

 ナクゾス・レーヴェルは、約900円前後という恐ろしい価格で新譜を出している。ユーザー側に立った場合、たいへん嬉しいことだが、作・編曲家側から見れば、ちょっとなあ……という面もあるが、よくこの値段で新譜が出せると、まず慨嘆。

 「カルミナ・ブラーナ」というと、カール・オルフを連想される方もおられると思うが、もともとは13世紀頃のドイツ系吟遊詩人たちの歌の総称で、オルフはこの古楽を発掘し、現代風に編曲したものである。歌は、僧侶たちが酒・女・道徳を説いた歌とされているが、坊主が酒・女を歌うなどとは何事ぞ、と思うなかれ、「ボッカチオ」に描きつくされている様に、洋の東西を問わず、生臭坊主は沢山いた。また「カルミナ・ブラーナ」はある面、とんでもなく卑猥で直訳できないとも言われている。このCDは、そんな底抜けに陽気な乱痴気騒ぎのCDだ。

 13世紀の曲でもあり、ドイツ系の音楽なのに、今日のようなドレミ節は存在せず、すべて教会旋法、いわゆるモードだらけである。各曲はすべて転調なしのハモりっぱなし。全くの転調も無く、コード変化もほとんどない曲の特長は、いろんなモードの変換にあるということがよく分る。言葉では〈教会旋法〉を知っていても、なかなか実態は分らない方にはぜひおすすめである。ヘクサコルドっぽい6音だけの曲もあり、ドリア、リディア、ミクソリディアのメロディが多い。そして、教会旋法といいながら、暗いものはひとつもなく、1曲目の「ようこそ、バッカス」からして、底抜けのドンチャン騒ぎで、けっこう笑えてしまう。2曲目のリコーダーは、もろ尺八風だったり、他の曲でも旋法の使い方が妙に日本風にきこえる時もある。最後のバグパイプがチャルメラ風だったりして。
 アンサンブル・ユニコーンの演奏もすばらしいハモりの世界を楽しんでいる。ハーディガーディ(一種の自動演奏ヴァイオリン)やフィドル、バグパイプ、太鼓、カウンター・テナー、ソプラノ、何とも不思議なアンサンブルである。

(玉木)

BEGONA OLAVIDE『SALTERIO』, CALAMUS『THE SPLENDOUR OF AL-ANDALUS』

BEGONA OLAVIDE『SALTERIO』(M025A)
CALAMUS『THE SPLENDOUR OF AL-ANDALUS』(M026A)

 今回はスペインの伝統音楽を紹介します。というと、フラメンコを思い浮かべる方が多いとは思いますが、今回扱うのはさらに古いのものです。カルロス・パニアグアという人が、失われてしまっていた中世の古楽器を、図版などいろいろな資料を当たることによって、独自に復元し、文字通り手探りで弾き方を修得しつつ演奏活動を行っているのです。この2枚のCDは彼を中心としてベゴニア兄弟など彼の仲間の演奏をスペインの教会でタッド・ガーフィンクルが録音し、そのタッドさんが日本で設立したM・Aレコーディングスというレーベルから発売されています。僕が紹介するCDは、実は、タッドさんが買い付けて日本に持ち込んだのを購入したものが多い、ということは気付いておられる読者の方も少なくないのではと思います。 

 中世のスペインといえば、そして特に彼等の住むアンダルシアとは、まさにキリスト教文化とイスラーム教文化が交錯した地域であり、それがゆえの豊かな文化遺産に溢れるところです。自然科学史の領域では、古代ギリシア・ローマの学芸は中世においてイスラーム教徒に受け継がれ、12世紀くらいから主にイベリア半島などからヨーロッパに流入してきた、と説明されることを確認しておきましょう。もちろん音楽もそうやって継承された重要な学芸の一つでした。ところが中世のイスラーム教徒がどのような役割を果たしたについては、未だもって十分に研究が進んでいるとは言えないのです。キリスト教のイスラーム教への蔑視という問題もさることながら、音楽に関してはなにぶんにもレコードなどない時代ですから、当時実際にどのような音楽が演奏されていたかについては確かめようがないのです。そういった中で、たとえ想像の域を出ないのだとしても、このCDのような試みは貴重だと思います。『SALTERIO』のほうは弦楽器の響きが本当に美しいです。ヨーロッパに住んでいて感じるのはとにかく教会が日常生活の本当に身近なところにあるということです。それぞれの教会は基本的に抜群の音響効果を誇っており、ということはそれらがあっという間に上質のコンサート会場に早変わりしてしまのですから、うらやましい次第です。なおSALTERIOというのは琴のような弦楽器の総称です。

 『THE SPLENDOUR OF AL-ANDALUS』は、歌と笛の旋律を表に出した曲が多いです。個人的な感想としては、笛の音が何となく日本のお囃子を思わせるし、中学生の頃愛聴していた中国の伝統音楽の調べに似ているような気がします。そんなことをタッドさんに話したら、笑われてしまいました。もちろん、これらのCDを買った当時、水滸伝を読み直していたからかも知れません。ただし、笛の調べは明らかに平均律ではなく、ピュタゴラースだとすれば、僕が日本や中国の音楽と近いものを感じてしまうのも強ち間違いではないように思っています。

(黒木)

※M・AレコーディングスのHPは:www.marecordings.com/

The Hilliard Ensemble『JOSQUIN : MISSA HERCULES DUX FERRARUAE』, ジョン・ケージ『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』

The Hilliard Ensemble『JOSQUIN : MISSA HERCULES DUX FERRARUAE』(Virgin/7243.5.62346.2.8)
ジョン・ケージ 『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』(NAXOS / 8.554345)

 純正律音楽というジャンルの中では、年代的にも内容的にも、あまりにもかけ離れたふたりの作曲家のCDを紹介しよう。

 1人目は、ジョスカン・デ・プレである。ジョスカン(c1450~1521)は、15~16世紀に於ける伝説的な作曲家。フランドル派の巨匠といわれており、当時の音楽界にはあまりにも大きな影響を与えた人ということになっているが、名声ぶりだけがひとり歩きしている感もあり、ジョスカンは実は3人いた、とかいまだに分らないことが多い。ただし、純正律のハモり感が、イギリスから伝わってきて、それを物の見事に消化した作風はあまりにも有名で、特に、ア・カペラ(無伴奏合唱)曲は定評がある。このジョスカンのア・カペラ合唱曲を見事に再現したCDが出た。イギリスの有名な男声コーラス、ヒリヤード・アンサンブルによる『MISSA HERACULES DUX FERRARIAE』だ。私はこのCD、眠る前にかけてよく聴くが、まだ最後まで到達したことは一度もない。必ず途中で熟睡し、目が覚めるとCDは終っている。

* * * * *

 もう1人は、現代のバリバリの鬼才、ジョン・ケージ(1912~1992)である。いまさらジョン・ケージの奇行振りを説明するまでもあるまい。私は学生時代、J・ケージのコンサートへ行って大騒ぎをしたこともあり、彼のハプニング性は、イベントとしては面白いとしても「音楽」とは違うと思っていた。また、私の若い頃は、いわゆる現代楽と称して、頭の悪い作曲家まがいが、ピアノの中に鉛筆や消しゴム、洗濯バサミ等という異物を挿入して、訳のわからん雑音をまき散らす、プリペアド・ピアノ奏法というものが流行っており、私は心底バカにしきっていたので、現代音楽展というチラシの中に、プリペアド・ピアノなどという文言があろうものなら即、ハナカミ扱いだった。そういう偏見 (?) はつい最近まで続き、NAXOSレーベルが、強力廉価版の中にJ・ケージを入れていなかったら、私は死ぬまでJ・ケージの良さを知らなかったことだろう。
 『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』は、なんと、1946年前後の作曲だが、書かれた年代はともかく、その醸し出すサウンドの何と神秘的なことか!ピアノの中の異物はしかし、計算し尽くされたかのような倍音を発し、1台のピアノに対する何人かの楽器奏者が共演しているかのような世界を生み出している。私は、自分の迂闊を大いに恥じたい。J・ケージはやはり、ただならぬ人だ。
 当CDレヴューで情報を書いてくれている黒木氏によると、J・ケージは、師のシェーンベルクから、「作曲の才能よりも発明の才能がすばらしい」と、誉めたのかけなしたのか分らないことを言われたらしいが、さもありなんと思える。ただし、このプリペアド・ピアノの特長を活かした作曲は大変難しい。ケージの発明の才、恐るべし。
 この倍音豊富な音の世界は、純正律的にも大いに共感できるものがある。NAXOSは安いし、ぜひ1回お聴き願いたい。

(玉木)


ヒーリング/健康コラム

 「純正律は健康に効く」って本当?
 医学博士福田六花が,事例を交えてお伝えしていきます。

目次

紹介のことば

<心と身体に優しい音楽> 福田六花(医学博士、作曲家)

 私達の生活を取り巻く様々なシステム、膨大な情報量、複雑な人間関係、そういった種々の因子から受ける心身のストレスなしに生活することは、現代社会においてはもはや不可能であると考えられます。いかにしてストレスを上手に解消し気分の良いリラクゼーションを得るか、これは現代に生活する私達にとって、避けて通ることの出来ない重要な問題です。
 1994年頃、玉木宏樹氏による純正律で演奏された音楽を初めて聴き、純粋無垢な美しい響きと心地よさにおおいにびっくりさせられました。と同時にこれは患者さんに聴いてもらいたいなと思い、早速CDを病院に持ち込み、待合室、検査室、理学療法室、集中治療室などでかけてみました。病気による心身の苦痛を少しでも和らげることが出来たなら、少しでもやすらぎを感じてもらえたら、そんなことを願いながら時が過ぎていきました。
 理学療法室に入ると、ゆったりと純正律音楽が流れる中で多くの患者さんが気分良さそうな表情でマッサージ、鍼灸、牽引などの治療を受けています。以前は疲れきったり、いらついたり、大声で世間話しをしていたりする人も少なくなかったのですが、純正律音楽をかけるようになってから多くの患者さんが以前よりずっとリラックスして治療を受けるようになりました。中には気分良く眠っている人もいます。
 心と身体に優しい純正律音楽が医療の現場において非常に有効であったのを実感しました。

◇◇ヘルスケア分野にも純正律ブームが到来!?◇◇ 『壮快』編集部 鈴木雪子

――昨年暮に発売された健康雑誌『壮快』で純正律特集が組まれたところ大反響。当研究会事務局にも読者からのお問い合せや純正律CDの御注文が数多く寄せられ、健康に悩みを持つ方が純正律に寄せる関心の高さが伺われまた。その『壮快』編集部・鈴木さんからのレポートです。
 弊誌『壮快』2004年2月号で「純正律」特集を行うことになったのは、インターネットで玉木先生のホームページを拝見したのがきっかけです。純正律音楽を聴いて体調が改善した人が多数いるという内容に興味をそそられ、また実際に純正律と平均律のドミソを聴き比べてその違いに驚き、玉木先生にご連絡させていただきました。

 特集中では、純正律そのものの説明のほか、純正律音楽を聴いて
 ・高かった血圧が正常化し耳鳴りが消えた
 ・耳鳴りが気にならなくなり不眠症が解消した
 ・パニック発作が治まり不眠症が解消した
 ・痛みと心痛が和らいで熟睡できた

という4人の方の体験記を詳しく紹介。また、医学博士の福田六花先生が行われた実験(純正律音楽と平均律音楽を聴いたときの脳波の変化を測定し、純正律音楽により高いリラックス効果を確認)を、福田先生ご本人にわかりやすくご解説いただきました。さらに、純正律CDの応募者全員プレゼントを実施したのですが、その結果……。
 編集部の予想をはるかに上回るご応募が殺到し、CDの発送が大幅に遅れる事態となってしまいました。読者の方々にご迷惑をおかけしたことを深く反省するとともに、純正律に対する関心の高さ、また期待の大きさを痛感した次第です。
 現在、全員プレゼントの純正律CDを聴いた読者の方々より、編集部にさまざまな感想が寄せられている最中です。具体的には「どうしたわけか、涙が出てきました。とにかく気持ちが楽になります」(大阪市・女性)「毎日3回も4回も聴いております」(福岡市・男性)「バイオリンの音が胡弓のようで驚きました」(女性)等々。
 また、「純正律音楽のCDは市販されているのか」というお問い合わせや、「既存の楽器を調律して、正確に純正律を出すことは可能ですか?」といった具体的な質問も届いています。
 純正律音楽が「効く」メカニズムはまだ解明されていませんが、実際にたくさんの方の症状が解消、または軽減していることは紛れもない事実です。今後も、健康雑誌ならではの立場から、純正律の効果・効能に迫っていきたいと考えています。玉木先生、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

体験記

<ミネラル・サウンド”光の国へ”ようこそ> 増永直子(作家・作詞家)

 最近の日本および世界各国における青少年の犯罪の増加と残忍さは、想像を絶するものがあります。現在の日本の青少年を生み育てたのは、昭和生まれの人間です。私たちには、心身ともに健全な青少年が育ち得る環境をつくる責任があります。それには先ず現在の子供たちと、これから生まれ育つ子や孫のために、早急によい環境と穏やかな雰囲気をつくりださねばなりません。この世に生を受けたばかりの乳幼児を包む平和な空気と、精神状態の安定した家族、特に母親の和やかな心理状態は、胎児や幼児に、そして少年たちにも大きな影響を与えます。

 家庭を初めとして、託児所あるいは幼稚園、小学校から中学校へと、彼らが育っていく過程で我々大人が最も考慮すべきことは、なによも情緒教育です。とりわけ音は、それも穏やかで心地好い音楽は、心の奥深くへと響き、脳から肉体にまで根づいて、人間の感情をつくりあげていく力を持つと思われます。

 1998年の秋、隔離病棟で舌癌の放射線治療を受けている間に敬愛する母を亡くした私は、退院後に術後の激しい痛みと、母の死を知った悲しみのために一睡もできず日夜鎮静剤と睡眠薬を幾度も飲みながら苦しみつづけました。以前からベッドの耳許にグレゴリア讃歌などの静かな音楽を流し、不眠を宥める努力をしておりましたが、この時はそれも全く効果なく、3日目の眠れない朝方に諦めの境地でふと手にしたCDをかけましたところ、不思議な感覚とともに快い眠りに入り、手術を受けて以来はじめて熟睡することができました。

  深い森の中に横たわっておりますと、空から木漏れ日が燦々と降り注ぎ、いつしか肉体が風になって、きらめく空中を浮遊するという、形容しがたい心地で眠りに誘われたのです。
 偶然に出会ったこのCDが玉木宏樹氏の純正律音楽でした。予備知識なしでしたので曲のタイトルと説明文を読んで驚き、音楽による人格造りが可能なのではないかと思いつきました。幼児たちの情緒への誘い、病人や老人ホームの方々の癒し、患者よりストレスが溜るお医者様と看護婦さんや介護の方々にとっても、心和む音楽は必要、安らぎとなるに違いありません。
  ミネラル・サウンド”光の国へ”のシリーズによる、年齢に関係ない情緒の育成と癒しによって、今の闇の中の世界を”光の国”に変える運動に、ぜひご参加くださいませ。

<純正律ミネラル・サウンドの意外な効用> 純正律音楽研究会正会員 長岡衛治

 まだまだ一般には知名度の低い純正律音楽を、健康情報誌をとおして、これまでこの種の音楽とは直接つながりのなかった層にまで浸透させるのは、とても賢明な方法と言えそうです。
 バレエ教室を主宰している私の妻は、昨年暮れ『壮快』2月号発売の新聞広告「本当のドミソ・純正律……」を見たことから、たまたま私が持っていたCD『光の国へ』を初めてじっくり聴く機会を得ました。そしてそれを彼女のバレエ教室のひとつ、成人を対象とした「バレエ美容体操」教室で、柔軟体操をするときのBGMとして使ってみたのです。この教室はバレエの基礎にそって楽しく体を動かしながら、美しく健康的な心と体を維持していこうという大人のバレエ教室で、生徒は主に50代60代のお姉さま方です。

 ここでBGMとして使ったのは『光の国へ』(part1)だったのですが、その注目すべき結果をメンバーの感想もまじえながら以下に列挙してみましょう。

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Aさん66歳は、腰を曲げても膝に頭がつかなかったが、この音楽を聞きながらやっているうちに自然に頭がつくようになった。また今まで脚が曲がりにくくて椅子に座るしかなかったが、あぐらもかけるようになった。
 →この指導をしている妻も1年前バイクの事故で骨折し、思うように脚が上がらなかったがこの音楽を聞きながらやっている内に脚がバーまで上げられるようになり、正座もできるようになった。

Bさんはミネラルミュージックを聞いた感想を、「懐かしいような感じで、心地よく長時間聞いていても疲れたり厭になったりしない。自然に体の中に音が沁みこんでくる。」と言っている。

94歳になるBさんの母親は音楽を聞きながら好きな編物をよくする。普段は編み目を飛ばしたり不ぞろいになるのはしょっちゅうだったが、その後このCDを聞きながら編んだものは目がきちんと揃ってきれいに編めている。それに今までの音楽ではわりと簡単に飽きてしまったり、うるさいと言って止めたり変えたりすることも多かったが、ミネラルミュージックはずっと鳴らしていても厭にならないらしい。

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 以上がこのバレエ教室での反応です。ミネラルミュージックは何故か体の中まで音が沁みこんできて、意外な作用をするもののようです。
 私は最近、あるソプラノのオペラ歌手が「蝶々夫人」の中で歌っているアリアの音声を波形分析してみて、ビブラートの幅が長3度を超えているのには驚きました。倍音にも当然同じ幅のビブラートがかかっているわけで、オーケストラが加われば立派な不純正律音楽!こんな音楽を聴いてぐったり疲れた後もミネラルミュージックは私達にやすらぎを与えてくれる素晴らしい音楽なのです。

純正律入門コラム

目次

  1. 純正律と平均律
  2. 21世紀は平均律から純正律へ
  3. 純正律とは?

純正律と平均律

この曲どちらの方が心地よく感じますか?

A:

B:

A:平均律です。
B:純正律です。(純正律ってナニ?という方は以下をお読み下さい。)

21世紀は平均律から純正律へ

純正律音楽研究会代表/作曲家・ヴァイオリニスト 玉木宏樹

 最近、ポップス界でもクラシック界でもイギリスものが大はやりである。ポップスではエンヤとかアディエマスに特徴的な、透明感あふれるシンプルなメロディとハーモニー。またクラシックでも、ヒリヤード・アンサンブルは、ノルウェーのサックス奏者、ヤン・ガルバレクとの共演『オフィチウム』が全世界で300万枚出たといううわさがある。ヒリヤードのコーラスでうたう曲は、16世紀のドイツの尼僧ビンゲンの作品で、その上に現代ジャズのアドリブが乗るという、意表をつくサウンドである。

 この、エンヤをはじめとするケルト系ポップス、そしてヒリヤード・アンサンブルやキングズ・シンガーズ等のクラシック・コーラスがくりひろげる天国的な透明感のあるハーモニーの世界、これが純正律(純正調ともいう)という、古代から伝えられている最もよくハモる調律の世界なのである。この分野の響きは、ヒーリング・ミュージックのコーナーでもよく取り上げられている。

 純正律などというと、むずかしそうだが、そんなことはない。単純によくハモることであって、ウィーン少年合唱団の天使の歌声を思い出してみればよく分かる。彼らの音程の訓練は絶対にピアノではやらない。今のピアノやオルガン、ギター、シンセサイザー等、音程を固定させる楽器はオクターヴを単純に12に平均分割した調律であり、平均律というが、この本来の意味は、平均的に音を狂わせてあるという意味である。

 実は、バッハもモーツァルトもベートーベンも、そして、19世紀のロマン派前期の作曲家たちは、いずれも平均律では作曲していない。12個の鍵盤だけで純正律の調律をすると使えなくなる和音が多すぎるため、古代から純正律に近づけるためにいろいろな調律の工夫がなされた。

 バッハは平均律を広めるために「平均律クラヴィーア曲集」を作曲したと日本語では記しているが、ドイツ語でも英語でも、どこにも「平均律」という言葉はない。ただ「Well tempered」と書かれているだけである。この Well tempered とはいったい何だったのかというのが歴史的問題で、ベルクマイスター第IIIの調律だといわれている。バッハの時代に「平均律」の調律法は存在しなかったのだから、「平均律クラヴィーア曲集」とは、恐れ入った誤訳である。

 バッハは対位法に適合したベルクマイスター調律だったが、後のモーツァルトに影響を与えたヘンデルはモノフォニーに適した中全音律(ミーントーン)を愛用した。モーツァルト時代に平均律の調律法が確立したが、モーツァルトは大変平均律をきらった。また、ショパンもミーントーンで作曲し、転調の範囲が限られるため、一晩のコンサートでステージに3~4台のピアノを置いたと伝えられている。ところで最近、モンゴルやトゥバ地方の一人二重唱、ホーメイという唱法が脚光を浴びているが、これこそ、人間の声帯が自然倍音で成り立っていることの証明である。この自然倍音を下から並べ替えたのが純正律である。ピアノの「ミ」は純正な「ミ」より半音の100分の14高いのだが、この違いは誰にでも分かるほどの差であり、とても汚い。音程を純正にとれるコーラスやアンサンブルはぜひ純正律でハモる訓練をしてほしい。

 純正律こそ「音の自然食」である。私のCDで思わぬヒーリング効果があったと報告がたくさん届いている。純粋なドミソは体にも良いのである。

〈『AVヴィレッジ』1999年9月号より抜粋〉

純正律とは?

黒木朋興

 自然倍音とは何でしょう? 例えば、ドの音が鳴る弦を弾くとすると、鳴るのはドの音1つではなく、基のドの周波数をn倍した音も同時に響きます。これらの音のことを倍音といいます。すなわち基音がドの時、2倍音はその1オクターヴ上のド、3倍音はその上のソ、4倍音は2オクターヴ上のド、5倍音はその上のミ、6倍音はそのすぐ上のソというように次々に上に音が積み重なっていくのです。そして3倍音のソの音、つまり5度の音に目を付け、オクターヴと5度の音を重ねて作った音律がピタゴラス律です。この音階は、単旋のメロディーを奏でるととても美しいので が、3度の音が高すぎて和声を作るのには向きません。またオクターヴ、ソ=5度の音と5倍音であるミ=3度の音を組み合わせてドレミファソラシドを作ったのが、日本語で純正律と呼ばれる音階です。これの特徴はとにかくドミソの和音が美しいことが挙げられます。ただし主要3和音以外の3和音の響きがとても汚く使いものになりません。また、何よりも西洋音楽の最大の特徴である転調をしようものならば、不協和音だらけになってしまうという欠点があります。

 こうしてテンペラメント(=整律)が開発されます。純正律の音を少しずつテンパー[temper=整える]して、つまり少しずつずらすことによって、耐え難い不協和音をなるべく減らし使える和音を増やそうとしたのです。例えばピエトロ・アーロンの中全音律や、ヴェルグマイスター、キルンベルガー、ヤング、ラモーの整律などが有名です。ただしあくまでも耳で聞いて音を調整するのですから、基本的には耳で聞いて心地よい和音が尊重されていました。

 ところが最終的に西洋が到達した12等分平均律は、1オクターヴを平均に12に分けるという整律ですが、耳で聞いた和音の美しさより、正確に平均に分けるために算出された2の12乗根という数値を優先させます。その結果、すべての和音が使えるようになった代わりに、純正律の美しい響きは失われ、オクターヴ以外のすべての和音が濁ってしまいます。極言すれば平均律は微妙な不協和音だらけの整律と言えましょう。なお大バッハが使っていたのはこの平均律ではありません。長い間バッハは平均律を使っていたという誤った見解が支持されてきたので、18世紀には平均律が普及していたと思われてきましたが、現在では早くても19世紀に入ってからではないかと言われています。おそらく19世紀末という、絶対音感が設定され、正確に音を測定する機器ができ、平均律に合わされたピアノという楽器が大量生産され世に広まった時代に、この平均律の専制は決定的になったものと思われます。

 現在では平均律が当たり前の音階として扱われ、古典整律がそれでも守ってきた純正律の響きは無視されています。正確に言うと実は上手い合唱団や弦楽団はきちんとした響きを出せるのですが、日本ではきれいにハモるための教育が十分でないために、和音感覚ではひけをとってしまいます。

 ドビュッシーやシェーンベルグなどの音楽やジャズなども平均律を前提にしていますから、平均律がまったくだめだと言うつもりはありませんし、やはりプラスの面もあったのです。それでも平均律の専横ぶりは目に余るものがあると僕達は考えています。平均律でやる必然性のない音楽までが、何の疑いもなく平均律で演奏されるのははっきり言って文化の貧困以外の何物でもありません。最近では古楽の領域を中心にようやくきれいな和音に目を向けようという動きが徐々に出てきましたが、僕達もその一派です。

 ただし僕達の特徴は、古楽ではなく、あくまでも現代の音楽を提供していこうということです。純正律の響きを十分に活かした音楽をやるためには、1オクターヴを更に細かく分けたスーパーテンペラメントを開発する必要があります。昔においても1オクターヴに50いくつも鍵盤がある楽器が夢想されたことはあり、現にヘルムホルツなどは1オクターヴを32に分けた楽器を作ってはいますが、おそらく人の指が10本だからでしょう、弾きこなすなど不可能でありました。しかし、現在ではコンピューターの発展によりスーパーテンペラメント実用の可能性が見え始めてきたのです。

 難解な音楽をごり押しするつもりはありません。心地よい音環境を提供したいのです。