ひびきジャーナル 第3号

玉木宏樹 藤枝守 黒木朋興 峰咲マーユ 田村圭子 福田六花(2000年8月15日発行)

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純正律音楽研究会会報『ひびきジャーナル』  {創刊第3号}
2000年8月15日発行

編集/発行:純正律音楽研究会
      〒106-0031 東京都港区西麻布2-9-2 (有)アルキ内
      Tel. / Fax. 03-3407-3726
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残暑厳しき折、いかがおすごしでしょうか。
遅れに遅れましたが、純正律音楽研究会会報『ひびきジャーナル』第3号、やっと出来上がりましたのでお届けいたします。
当純正律音楽研究会の起ち上げから約1年と少々。段々と純正律への認知が拡がりつつあるような気がしています。
今回の会報では、「純正調」の作曲家・藤枝守氏との対談、自分では大変面白いと思っていますが、いかがでしょうか。
これから先、いろいろと発展の可能性高い純正律音楽研究会ですが、何卒、皆様の御意見を吸収し、さらに発展させたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
そろそろ夏の疲れも出始めるころ、どうぞ御自愛ください。

                     純正律音楽研究会代表 玉木宏樹

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――玉木宏樹の“この人と響きあう” 第3回――
 音律とはメロディを生み出す土壌
                     作曲家 藤枝守さん

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 連載3回目にしていきなり同業者対談が (!?)。今回のゲストは、日本では数少ない、純正調に基づく音律の世界を模索し続けている作曲家の藤枝守氏です。箏組曲『植物物語』をはじめとするCDや著書『響きの考古学――音律の歴史』(音楽之友社)でも知られる藤枝氏はまた、コンピュータを援用したパフォーマンスや異分野の作家たちとのコラボレーション・ワークにも積極的に取り組まれています。あれっ、ところで、純正律と純正調って、どう違うの?

玉木:おそらく、あなたと僕の大きな違いはね、あなたは作曲家の立場だけど、僕はあくまでも肉体派の演奏する作曲家なんだよね。そこに考え方の違いがあったり表現する際の仕方が違ったりするんだろうと。そこら辺も伺いたいんだけど、純正律そのものに対してはいつ頃から興味持ったんですか。
藤枝:80年代にアメリカ(カリフォルニア大学)で作曲の勉強始めた頃ハリー・パーチやルー・ハリソンに出会って……。
玉木:お、まだパーチ生きてたの?
藤枝:いや、僕の居たサンディエゴがパーチの居た所で、実際に彼の楽器を見る機会があったりもして。純正調を意識しだしたのは向こうに行ってからです。倍音自体には興味あったんですけれど、パーチの楽器を見たり本を読んだり大学で研究テーマにしたもんですから。85~86年位かな。
玉木:ルー・ハリソンというのはパーチの弟子なの。
藤枝:いえ。でもパーチの「Ge-nesis of a Music」という本があって、それを読んだことが純正調の世界に行く契機となったことは確かなようで。その後の交流はかなり深く、パーチの存在が大きかったと。今でもそうですけれど、純正調音楽のひとつの原点はパーチだとみんな見做してるし。
玉木:僕はあんまりパーチは理解できないんだよね。汚くてさー。
藤枝:汚いというよりは、楽器の特性だと思うんですけどね。
玉木:なんか、うまくチューニングできてないんじゃないの。
藤枝:そう思います。楽器はちゃんと打楽器的なものを使ってるし純正調の持ってる基本的な可能性みたいなものがもう1個あるんじゃないかと。
玉木:なるほどね。ところで、3月30日の当研究会のミニコンサートを見て、いかがでした?
藤枝:純正調の研究の範囲ってどこまでいくのかなあと。パーチとかルー・ハリソンの影響受けてる人間としては、もっとモーダルな世界にどうやって移行できるか、ハーモニーに因らない音楽の可能性というもの、あるいはもっと微分音的なイメージがあって、本当に細かい半音の何分の1のイントネーションの多様性みたいなものに僕は興味があるものですから。実を言うと、ハモること自体は僕にはあんまり大きな意味はないんです。たしかにすごく大事なことなんだけど、それプラス、その力に合う音程的な要素がどう入り込んでくるかとか、そこにどんな微分的な抑揚が表現できるかというのが大きくて。ただ、玉木さんがやっておられることはとても大事で、一般には響くこと・ハモることの実感がまだ知られてないですよね。多くの人が忘れていたり知らなかったりする以上、それはやっぱり色々な形でやらなくちゃいけない。だからハモる事から入って初めて次の世界に行けるのかなと思うんですけれど。
玉木:啓蒙活動は大変だからね。
藤枝:日本はこれまで頑強にヨーロッパの音楽を受け入れてきて、例えばバッハの「平均律曲集」という誤訳のせいで平均律が近代音楽の始まりだっていうふうにやられてしまってるし、おそらくほとんどの現代作曲家は誰でも、ピアノ用にしろオーケストラ用にしろ、もう当たり前に平均律を前提に作ってますから、現代音楽がああいう難しいものになった1つの理由には、平均律化しただけで半音の差異の中での組み立てが簡単になったということがありますから。

〈現代音楽は耳が悪くてもOK〉
玉木:シェーンベルクがやりだしてみんな無調になったじゃない。だけど、音楽が行き詰まったからって個々の音に主張性を持たせて、ドデカに走ったり無調に走ったりするぐらいなら、もう一度純正律に戻ったほうがずっといいじゃないかと僕は思ったの。
藤枝:おっしゃる通りですね。
玉木:僕は芸大のヴァイオリンなんだけど、作曲もやってたんで作曲科の友達も多くて、なんかって言えば全部初演を押し付けられたの。僕は初見で何でも奏くしさ。それでやつら「グショーン、バターン」みたいなムチャクチャな、そんなこと書いて何が面白いのみたいな譜面書いてきてさ。で、「お前、本当に譜面通り奏いたと思ってるのか、耳悪いな。俺、全然めちゃくちゃに奏いたんだぞ」「いやあ、ちゃんと奏けてたぞ」って言うから、バカヤロウ、って本気で殴ってやった。それ以来俺は現代音楽の作曲家って信じてないんだ。要するにね、耳が悪くても「現代音楽」ってのは書けるんだ。あ、別にあなたを非難してるわけじゃないんですよ(笑)。
藤枝:いや、僕もなんとか殴られないようにしないと(笑)。
玉木:あなたは芸大だっけ?
藤枝:東京音大です。僕の先生が湯浅譲二なんですけど、先生は僕のこと理解してなくて、全然わけのわかんないことやってるとか思ってて(笑)。本当はちゃんとやってほしかったらしいんですけど。
玉木:現代音楽をちゃんとやってほしいなんて世界、あるのかい?芸大の作曲家の系譜を見たって、分かり易い曲書いたらバカとかさ。
藤枝:そう! だから僕がアメリカに行って大きかった事は、やっぱりルー・ハリソンに会ったことですよね。パーチはもう亡くなってたんで、サンディエゴにあった彼の楽器にいろんな間接的な影響を受けたんです。ルー・ハリソンとは交流して、家にも行ったりとかして。本当にいいメロディ書くんですよ、彼は。その時に、これでいいんだと思ったんですよね。メロディが書けるというのがいかに素晴らしいことか。その中に音律なり色々な知恵があるんだろうけど、やっぱり表面にメロディがあるかないかですよね。
玉木:ただ単にドミソ節でメロディ書いてたって手垢がついた劇伴にしかならない。だったら古楽聴いてるほうがよほどいい。それはやっぱり一度、純正律のフィルターなりを通してとにかくモーダルな世界に足を踏み入れないと、ちゃんとしたメロディは書けない。
藤枝:だから、ルー・ハリソンが言うように、純正調でもいいんだけど、音律はメロディを生み出す土壌なんですよね。

〈シェーンベルクは反面教師か〉
玉木:僕は、シェーンベルクが大きな過ちを犯したんだったら純正律に戻るべきだとずっと思ってたのね。彼はものすごく和声学に強くて、平均律を批判してるような部分もあるでしょ。だから「平均律の世の中になってしまったら行き着くところこんなものにしかならない」という反面教師でやったんじゃないかなと。ト長調の弦楽組曲とかものすごくきれいだもん。
藤枝:そうですね。もしかしたら、無調的な世界と調性的に偏った世界というせめぎ合いの中にシェーンベルクがあって、以後のウェーベルンら、ウィーン楽派的な後継者――ブーレーズ、シュトックハウゼンとかが攻め入ってああいう世界になっていった。僕はむしろシェーンベルクより、「現代音楽のスタイル」にしちゃったその後継者たちに罪があるという気がする。とはいえ、シェーンベルクを20世紀音楽の祖とするなら、そこから無調性的な世界が拡がったわけだから、ある程度は恩恵といえるかもしれないけど……例えば12音使えば、どうしようもない作曲家にも書けるわけですしね。
玉木:考えなしに書けるからね。
藤枝:また、ヨーロッパ自体がそれを継承したというのは明らかですよね。なぜダルムシュタット的な視点だけが日本も含め世界中に蔓延してるのか。結局は「宗教」なのに、あたかもメインストリームのごとくにね。さっきから現代音楽という言葉が出てきてるけど、「現代音楽というのはああいう世界」というのを誰が作ったのか。玉木さんがおっしゃるように作曲家の世界がいかに閉ざされているか、聴衆から離れていったか、あるいはメロディ作ることを馬鹿にするような音の構築性に対する依存を誰が差し向けたのか……平均律をやめてしまったら彼らの土台が全て狂っちゃうんです。無調というのは平均律を前提に成り立っているわけで、それがなくなれば調性自体が消えるわけですからね。

〈「律」と「調」はどう違う?〉
玉木:世界の崩壊を招くだろうからね。ところで、さっきあなたのお琴の組曲聴いて少し安心したんだけど、実はあなたが暮れにテリー・ライリーとやった時、僕は聴きに行って参ったなと思ったんだ。
藤枝:参ったというと……?
玉木:だから、純正「調」なんだなと。「律」ではなくて。
藤枝:調と律とのあんまり大きな使い分けはしてないんですけど。
玉木:所謂、倍音音楽だなと思ったわけ。テリー・ライリーはそうなんだけど、僕はあなたの曲は以前に聴いてなかったから、あなたもそういうことをやるのかなと思ったわけ。となると……なんというのかな、ガラスをこすって出る音も高倍音ではあるわけだから、それを純正律だと言われても困るなぁ、とね(笑)。
藤枝:でも、純正調というのは元々倍音の組織化ですから、倍音が全てとまでは言わないけど、色々な場面で転用して組み替えていけば純正調になるというか、倍音的な世界になるかも。
玉木:だから、僕は純正律だけどあなたは純正調だということね。純正調というのは基音があって、そこから絶対転調しないわけだ。だから高倍音とかを組み合わせることによって、1つのトーナルと言えばそれしかないわけだよね。だから、純正調という言葉を使ってるのかなと思うわけ。
藤枝:律とはtemperamentということだと思うんですよ。そうするとちょっと意味の幅が狭まっちゃう。だから、律をどう考えるのかというのが、ちょっと僕にもクエスチョンなんで調という言い方をしてるんですが。
玉木:なんで「法律」の律なんて字を使うんだろうねぇ。
藤枝:辞書自体がtemperamentを音律と訳してからいろんな誤解が一気に起こった。僕もいろんな所でしゃべるけど、「そうじゃないんだ」ということばかり啓蒙しちゃってて、それを言わないと次に行けないんで、なんかねえ。
玉木:いまだにネックになるよね。
藤枝:たしかに「平均律は悪で純正律が善」という考え方はよくないと思ったんですよ。平均律には機能的な意味もある。僕はモートン・フェルドマンに習ってたんですが、彼の音楽はやっぱり平均律じゃないとだめだと思ったんです。というのも、中心がないでしょ、彼の音楽には。で中心がないある種の浮遊性、あるいは時間性みたいな表現には、平均律のああいう枠組みがすごくうまくはまると思うんですよね。
玉木:「悠久の○○」みたいな。
藤枝:そうなってくるともう、作曲家が自覚するかしないかの問題で、僕もある局面においては。平均律は使うかもしれないし。そういうものをちゃんと分かった上で純正調なり音律と付きあうっていうことが大事なんですけど、平均律でドミソ音楽を作ることの矛盾を感じないまま作ってる人があまりに多い。無調音楽がどういう意味を持つかっていうことが分かった上で作るならともかく。

〈赤いカプセルを選ぶという事〉
玉木:映画『マトリックス』見た? 主人公は「お前は救世主になる資格を持っているかもしれない。この青いカプセルと赤いカプセルがある。どっちを飲むか」って言われて、青いカプセルなら元のまま何事もなく日常生活を送れる。赤いカプセルを飲むと、今見えてる世界が全部ニセモノだってことが判る。で、飲まないと映画にならないから主人公は赤いカプセルを飲むわけ。純正律ってのは、いわばその赤カプセルに近いんだな。
藤枝:本当にそうですね。だから飲んじゃった人は――ひょっとしたら僕も玉木さんも不幸になるかもしれないけど、でもあえて青を飲まなかったと。僕もピアノ曲はベルクマイスターとかいろいろやっていますけど、それも演奏者がいての話ですよね、僕が弾くわけじゃないので。今度楽譜も出ることになったんですけど、それは楽譜の上では平均律でも弾けるように書こうと思ってるんです。そうしないと流通しないんですよね。できればベルクマイスターでwell-temperamentでやってほしいけど、「平均律でも可能」と書いておけば、「平均律というのは仮の姿かもしれない」と奏者が意識するかもしれない。音楽が流通していく中では、やっぱり、それを弾く人間、聴く人間にも多少は「赤いカプセル」を飲んでもらわないと困る。みんな青い方ばっかり飲んでるから閉じた世界になっちゃったわけだから。それがいい意味での啓蒙だと思うし時間かかるし、これからもっともっと反発もあるとは思うんだけど。
玉木:常に相携えてやる必要もないけど、互いに共鳴しあってやってくのもいいね。
藤枝:アメリカではそういうネットワークもできてますし、僕もその影響受けた一人ですから、日本でも何かができるんじゃないかと。そういえば純正律音楽研究会って会員どのぐらいいるんですか。
玉木:ネット会員も入れると数百人ぐらい。
藤枝:すごいですね。
玉木:それで、2ヶ月に1回ぐらい純正律音楽研究会でミニコンサートをやってるんですよ。でね、曲の提供云々は別としても、いっぺんその時にゲストで来てもらって、さっきのCDとかかけながらお話をするとかね、そういうことがあってもいいじゃない?

〈本当の響きは味わってみないと〉
藤枝:ありがたいです。やっぱり純正調っていうのはみんなのためのものだから、使い方いろいろあっていいと思うんですよね。純正調だけが正しいっていうのも問題だし。でないと衰退していっちゃう。いろんなやり方がいっぱいあって、逆に突き詰めれば誰が弾くのか、弾き手・聴き手が選べばよくて、この純正律はいいとか響きがいいとか。僕は、響きの問題というのは、かなり味覚の問題に近いと思うんです。たとえるなら、今まで我々は「平均律というファミレス」でカレーを食べてたわけですよ、本当のカレーを知らずに。香辛料はいっぱいあって、その混ぜ加減のヴァリエーションも無限にあるはずなのに、それを知らないから、ファミレスのものだけをカレーだと思って食べていたら、ある時本場のカレーを食べた時に、おやっと思いますよね、知らない味だから。でも、一度食べれば、香辛料の割合によって響きが違うとか独特の香りがするとかだんだん判ってくる。たくさんあるカレーの味(=響き)の世界が拡がっていった時に「一体何が違うんだろう」と思えるわけですから。
玉木:とにかく積極的にやってみようという人間を増やさないとしょうがないんだよねぇ。
藤枝:逆に今は、音律の多様性を拡げるためにも、いろんなものを受け入れていくべきじゃないかと。僕が音律に取り組み出してから、いろんな人が寄ってくるし、自分でも、音律の視点からインド音楽やホーメイも含め、いろんな民族的な音楽を聴きだした。そうしていると自分の感性が開かれていくのが判ってくるし、演奏家たちとも触れ合う機会が多くなってくる。音律の意識が、ある意味でインターフェイスになっているんですね。音律を極めようとした事で玉木さんはじめ本当にいろんな人に会えたと思うし。現代音楽だけではもうだめなんですよ。作曲家仲間とか「そういう現代音楽」を作ってる1つのソサエティの中だけで自分を生かしている場合じゃない。
玉木:でも、武満さんもいなくなったから、それも崩壊してんじゃないの?
藤枝:でもね、屍で寄り添ってるような、まだ死にたくない、みたいなのがいますよ。だから武満の死ってことで20世紀の日本の「現代音楽」史が閉じましたというふうに、早く歴史の幕を引く人が誰か現われないとね(笑)。
                         〈文責:田村圭子〉

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{{{{{{ ムッシュ黒木の純正律講座 第3時限目 }}}}}

「純正律」という呼称についての考察  ―その3―

                           黒木朋興

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自然倍音という現象はデカルトとメルセンヌが17世紀に発見した、と一般に言われる。ではそれ以前の人々の耳に倍音が聞こえていなかったのか、と言われればそうではないだろう。しかし中世の大学で自由7科の1つとして研究された音楽とは、歌声や楽器の音など我々が実際に耳にする音楽というよりも、ムシカ・ムンダーナ(musica mundana) やムシカ・セレスティス(mu-sica celestis)という世界や天体の秩序のことであり、すなわち耳に聞こえない音楽のことだったということに注意したい。

◆「耳に聞こえる音楽」は下等?◆
 もちろん、耳に聞こえる音楽文化がなかったということではなく、教会にも宮廷にもそれなりの音楽が培われていたのだが、ここで重要なのは中世の諸技芸は〈神〉に対する近さによって厳密に階層分けされており、耳に聞こえる音楽は、聖歌を除き、一般に低い位置に貶められていたということだ。つまり中世の学者にとって重要だったのは、作曲したり演奏すること以上に宇宙を知ることだったのだから、倍音という実際の音響現象は二次的なことにすぎなかっ
たのである。それに対してデカルトやメルセンヌといった哲学者(=科学者)の功績は、耳に聞こえる音響現象を学術的な議論の爼上に上げたことであり、自然倍音の発見ということもそのような知的環境の変化という相のもとに捉えるべきであろう。
 つまり、実際には耳に聞こえない音楽を議論にする以上、倍音現象に注意を払わなくても全く問題はないわけだし、具体的な音響現象を観察し始めた以上、倍音が議論の対象として浮上してくるというわけだ。またデカルトの代表的な著作『方法序説』が、当時の学術書としては極めて異例なことにラテン語ではなくフランス語で書かれているということも思い出しておこう。それまで真理に至るためにはラテン語を身に付け論理学や修辞学を学ばなければならないとされていたのに対し、デカルトは〈理性〉を正しく導いていけばフランス語でも十分真理を理解できると考えたのだ。デカルトが〈近代=現代哲学〉の父と言われる由縁である。
 それまで教会や大学の中だけで追求されてきた真理を広く民衆に開くきっかけを作り、音楽を机上の論理から人間の感覚に快を与えるものへと開放した、と言えば聞こえは良いが、しかしこのデカルト哲学最大の問題点は、22歳の彼が『音楽提要』において既に言明しているように、「感覚は絶えず欺かれる」としていたことにある。デカルトの生きた17世紀とは、〈この世のすべては疑わしい〉という懐疑主義で理論武装をしたリベルタン(自由思想家)達が〈神〉の存在を辛辣にあざ笑った時代であり、彼の有名な「コギト・エルゴ・スム(我思ウ、故ニ我アリ)」とは、全てが疑わしいこの世における唯一確実な真理なのだし、そして何よりも〈神〉の存在証明だったのだ。

◆音楽も魂で聴かなくっちゃね◆
 そのような真理に至る彼の思索の道程において「感覚は絶えず欺かれる」という台詞は、リベルタン(=懐疑主義者)達への理論的な防御装置として機能する。つまり、我々は常に欺かれているのだから全てが疑わしく思えてしまうのも当然のことだ、現に学者達は大学の研究室の中で誤謬に継ぐ誤謬を重ねてきたではないか、だからこそ〈理性〉の光を誤謬に満ちた世界に当てることによって確実な真理に至ることが大切なのだ、とデカルトは説いたのである(デカルト自身の考えというより、むしろ後のデカルト主義が掲げた根本原理であると言ったほう良いだろう)。デカルトは確かに大学の研究室から人間の感覚へと音楽を開放しはしたが、その感覚を全面的に信用したのではなく、具体的な視覚や聴覚の上位に新たなる形而上学的概念を設定したのだ。つまり物事はただ見たり聞いたりするだけではなく、〈魂〉で感じとらなければならない、ということだ。そしてこの〈魂〉に宿り人間を正しく導いていくものこそが、〈神〉が人間に与えてくれた〈理性〉なのである。 以上、デカルトの音楽論に関しては名須川学氏に多くを教授して頂いた。感謝したい。

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天国的純正律音楽入門 第3回

 桐朋学園短大講師の体験記

      純正律音楽研究会代表 作曲家・ヴァイオリニスト 玉木宏樹
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今、講談社新書で出たばかりの、脚光を浴びている『音楽のヨーロッパ史』を書かれた上尾信也氏は、桐朋学園短大を拠点に「音楽史研究会」という結構ハードな集いを主宰されており、去年私が「“純正律”について語れ」という依頼の下、いつものようにヴァイオリンと器械といろんなCDを持参して、しゃべったりヴァイオリンを奏いたりしたのが多少印象に残ったのか、「今年半年“純正律”についての講座を持って欲しい」との委託が上尾氏より来た。
 私は「“反”絶対音感教育」者だけど桐朋で大丈夫か、と訊いても「全然OK」とのこと。というわけで、今年の4月から7月まで前期の講座を持ち、7月14日が前期最後、そのあくる日が芝abc会館ホールでの純正律コンサートである。

◎平均律が人生を惑わせる?◎
短大生というと大体18~20歳ぐらいで、いま問題の“17歳”とほぼ同じ年代である。しかし、桐朋の学生はどうだ。行儀が良く従順で、私語のひとつもなく、出席率も大変良い。他の講座もこのようかどうかは知る由もないが、私の授業の感想を書かせたところ、「新鮮な衝撃に溢れ、こんなに眠くない授業は初めてだ」という反応が多かった。大体の予想はしていたが。なにせ、初回からいきなりヴァイオリンを奏きっぱなしで、純正律関係のCDをかけまくり、これでもかこれでもかと純正律を煽りまくり、狂っている平均律の実態を露わにしたものだから、学生が眠れなかったのも当然だろう。1回目の授業の感想の中で、ピアノ科の学生から、「人生、どうしたらいいか分からなくなった」との深刻な言葉が返ってきた。私は立場上「平均律」を悪者にしたり敵視したりしているようなフリはするが、実は「平均律」の良さもよく分かっている、とのもと、2回目3回目と私自身が「平均律」で作曲している曲も何曲かかけたので、多少は心が休まったかもしれない。
 それほど「純正律」というのは一種「危険な存在」である面も持っている。それは日本の音楽教育のズサンさの証拠であり、アプリオリにピアノ用の平均律のピッチこそが絶対正しいというドグマの下の「絶対音感教育」に全ての弊害の源がある。
 そんなことを「絶対音感教育」の牙城、桐朋学園で何度も言うもんだから、自分でも内心ハラハラすることがあるが、突っ走り出したらブレーキの効かないところもある私だから、未だにコンピュータのない桐朋にも痛烈な批判をしたりして、あぁ口は災いの元であるな、と痛感している次第である。

◎黒木助手よ、有り難う◎
 ところで、この講座は音楽専攻だけでなく文学も演劇もやってくるので、そういう意味ではにぎやかである。特に、演劇科の連中の元気のいいこと。はっきり自己表現できないと芝居のイロハもできないわけだから、当然のことではあるが。わずか15回足らずの講座だったが、学生は確実に純正律の存在を知り、そのうちの何人かは純正律の虜になったはずだ。演劇や文学の学生もいるので、難しい用語は少なくし、とにかく今流行りの透明系の音楽がそうなんだといって、それ系ばかりかけまくったので、よく分かってくれたのだろう。
 それから、数回を除き、黒木氏が助手として参加してくれて彼なりのお薦めCDをかけた。これが私と全く違う分野でありながらやはり純正律ということで、みんなはブッ跳んでいた。もとはと言えば、黒木氏の紹介で「音楽史研究会」に誘われたのがきっかけ。彼はもうすぐフランスに行ってしまうのだが、彼のフランス便りを楽しみに音律問題の発展を期したいと思っている。

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 [癒しの現場から]
  身体は季節とともに生きている
  ――陽幸堂 峰咲マーユさんにきく その1――
 
                             田村圭子

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  今回は、日本医学をベースとする整体と「アトマスキュア」という独自の健康指導法で知られる、東京・市ヶ谷の陽幸堂に、玉木宏樹氏の治療も兼ねて伺ってみました。かつてここの峰咲マーユさんと玉木氏は、ある録音の現場で運命的な出会いを体験し、その御縁でこの度の純正律新作CD『第3の夢』が生まれたのでした(玉木HPにそのエピソードが載っています)。かねてより音楽と身体との関係を整体の立場から注目し続け、治療・指導の一環として積極的に音楽制作にも携わってこられた峰咲マーユさんのお話を今号からシリーズでお届けしていこうと思います。

☆身体は入梅の準備をしている☆
 陽幸堂に伺ったのは6月6日、東京はまだ入梅前でした。治療のため俯せになった玉木氏の身体に触れるなりマーユさんから「あら、玉木さんはもう梅雨に入ってる。敏感なのね」と意味深なお言葉が。その訳は後ほど明かされるのですが、まずは、陽幸堂独自の治療・健康指導法「アトマスキュア」についてお尋ねしてみました。

「患者さん一人ひとりの日常や身体の違いに合わせて診る訳ですが、相手の身体の中から、誰にでも備わっている治癒能力を引き出すために、身体にはたらきかけてきっかけをつけるんです。実際に元気になるのは、例えば、玉木さんなんですね。私が一生懸命頑張って力を入れて押しても引っ張っても、その人の本当の元気というのは出てこない。だから私たちが手を当て、「輸気」という、相手の身体に手を当てることでその人が今疲れている部分や具合が悪くなってる部分を見つけて、そこにちょっとだけ気を送るということするわけです。これは気を送られた側としては、喉が渇いた時にお水をもらうようなもので、喉が渇いてるときにパンを貰っても呑み込めないからお水が欲しい、でもおなかが空いているときにはパンがいい。そういうふうに、その時々に合わせた気を送ると、欲しいだけ玉木さんが元気の気を吸収して、自分の中で活性化していくわけです。だから、治療というより身体に対する指導法と呼んでいます。酸素が足りないようだから深呼吸しましょうとか血圧が高いようだから脇をつまんでおきましょうとか、そういうお家で出来る方法が一番大事なんですね。私がここで行うのは全体の3割、後は玉木さんがお家に帰って自分でやってみる事、それが7割を占めている。自分で自分を元気にするということ、それがアトマスキュアなんです」〈峰咲マーユさん〉

☆ヒトの身体は面白い☆
「アトマスキュア」というのは、「アトマスフィア(=大気)」と「キュア(=癒し)」という英語を融合させてマーユさんが造った名前だそうです。それは、元来、人間も自然や環境の一部を成す存在であるという認識に立ち還った言葉でもあります。これは、当たり前の事だけれど、忙し過ぎて利便性だけに寄り掛かる日々の暮らしの中で、私たちが見失っている事でもあります。

「ひとの身体って面白くてね、誰でもそうなんですけど、俗に〈背骨〉と言われる所の骨一つひとつが、身体や精神面のいろんなものと関連性がある。だから例えば神経が疲れたとか耳や喉が痛いとかいう場合も全部どこかに決まった場所があって、そこをちょっとだけ(輸気やマッサージ等で)調節するだけの事なんです。さっき玉木さんの血圧を調整するためにぽこんと叩いた所がありますね。最近地震が多いけれど、地震が来る時っていうのは、そこにちゃんと印が出てくるんです。本当は誰にでも出てるんですけど、みんな、知識――情報の中で生きていて、揺れて初めて“震度幾つだろう、ああ大きかったんだ”という感じで、知識だけで地震をとらえようとする。自分が地震を身体で感じていたことを知らないんです」

 本当は、読者の皆さんにも私にも、生まれながらにそういうセンサーが備わっているんですね。

☆季節ごとの身体の変化を診る☆
「先ほど玉木さんの身体を診たら一早く梅雨時の体になってました。梅雨時には、多湿のために出るはずの汗が出にくくなったり、風の冷たさでまた中に引っ込んじゃうとか、そういうだるさがあるんですが、梅雨になると必ず腰のところに一箇所上がり下がりが出てきて“玉木さんが梅雨に入ったな”ということになるし、春になると足首の形が極く僅かに変わってくる。私たちが日常的に患者さんに触っていると、この前の足と今日の足はちょっと違うぞ、っていうことで春になったのが分かったりする。だから、身体の状態が梅雨に入った玉木さんには、これからはお風呂に入る時には、今までざぶっと入っていたのを、今後は入る前に湯船のお湯で顔を洗ってからお湯に浸かって下さいという〈指導〉を行うわけです。そうすれば、冬になって極端に血圧が上がって具合が悪くなることがなくなる。冬のための予防は、梅雨の時期から始めるんですね。ちょっとややこしいかもしれませんが、このように、人間の身体は四季に合わせて変化していて、そういうふうにできている身体の変化を確かめながら、それが全部、〈背骨〉といわれる部分の中に集まっている様子を私たちは見分けていくんです。つまり、人間の身体っていうのは、常に季節と一緒に生きていて、私たちは、それを診ているんですね」
                            【次号につづく】

★陽幸堂――Tel. 03-3235-7535
      東京都新宿区市ヶ谷本村町3-26ホワイトレジデンス9-B

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外科医のうたた寝☆その2
 
  マラソンの快楽(ライバルは郷ひろみ)

         福田六花(純正律音楽研究会発起人:医学博士、作曲家)

 今から4年前の秋、当時長野県の諏訪地方に住んでおり、病院の仲間に誘われて、地元で開催された諏訪湖マラソンというハーフマラソン(約21km)の大会に出場した。無謀にも5~6回練習しただけで参加したところ、辛かったけど完走出来て大いに感動していた。ところが、後日送られて来た成績表を見たところ、7000人中6200位程度であり、今度はやたらに悔しさがこみあげてきた。そんなことを契機にして、いつの間にかマラソンの練習を本格的(?)に始めるようになり、徐々にエスカレートして現在の職場(癌研)に陸上部を作り、昨年はマラソン、駅伝、トライアスロンと14回の大会に出場してしまった。ただし、フルマラソン(42.195km)は大変なので、たった1回だけである。
 昨年末、ぼーっとテレビを観ていたら、なんと郷ひろみがNYシティーマラソン(42.195km)に出ているではないか。そして足の痛みをおして3時間44分で完走しているではないか。ちなみに僕のフルマラソンのタイムは4時間40分である。郷ひろみに遅れること1時間余り……。だんだんと悔しさがこみあげてきた。そして冬から春にかけて、暇さえあれば自宅近くの玉川の河原を走った。
 そして迎えた4月9日長野オリンピック記念マラソン大会、目標タイムは4時間20分と広言していたが、実は郷ひろみに勝つためには3時間43分と心中期するものがあった。
 世界の強豪も多数参加するレース。全国中継のNHKのカメラが見守るなか、一斉にスタートした。どうもスタート地点でテレビに映ったらしく、行く先々で沿道で応援する人達から「君、スタートでテレビに映ってたよ」と声が掛かる。ちなみに僕は、一部金髪のカーリーへアーであり、角刈りや短髪の多いマラソン大会ではかなり目立つようだ。
 天候も体調も良く、楽しく、全力で42.195kmを走ることが出来た。そして、結果は4000人中1100位で3時間56分。自分としては十分満足のいくタイムであったが、郷ひろみにはあと少し届かなかった。来年こそ、見てろよ……。
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――GENTLE GIANT『in concert』(WN CD066)ほか――

黒木:今回は僕の担当なのでロックでいきます。
玉木:僕もロックは、実は大好きだし、日本で初めてロックヴァイオリンをやってるんだよね。
黒木:そうでしたね。じゃ、ジェントル・ジャイアントというバンドを御存知ですか。彼らはイエス、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、E.L.P.などといったバンドと同時期に活躍した、いわゆるプログレなんですけど。
玉木:うーん、今出た名前は全部知ってるし、よく聴いたけど、ジェントル・ジャイアントはどうも網の外のようだったね。
黒木:そこで今回は、このジェントル・ジャイアントをお薦めしたいわけです。特徴といえば、とにかくテクニックがすごかった。それも個人のプレイヤーとしてのテクニックではなく、バンドのアンサンブルとしてのテクニックが尋常じゃない。しかも1人が複数の楽器をこなし、ヴァイオリン、チェロ、ヴィブラフォン、リコーダー、サックス、トランペットまで操ってる。ギター、ベース、キーボード、ドラムなどはメンバー5人全員がほぼ同じレヴェルで演奏でき、ライヴでは全員によるギター、リコーダーやパーカッションアンサンブルを披露していました。何よりも圧巻なのがヴォーカルアンサンブルで、5人がアカペラでばっちりハモっちゃう。はっきり言って、さっきのバンド群の中では問題にならないくらい飛び抜けて上手かった。ただし日本ではほとんど売れなくて、一部のファンにもてはやされるくらいですが……現在では音楽活動をしていないようです。まずは早速、彼らの「ON REFLECTION」という曲を聴いてみましょう。――〈CDをかける〉――これは彼らの馬鹿テクぶりを凝縮したような曲で、スタジオ録音よりもこのライヴヴァージョンの方が面白いですね。と言うか、ライヴで、つまり編集をしないでここまでやれるというのは驚異的。まずリコーダー、チェロ、ヴァイオリン、ヴィブラフォンなどのアンサンブルで始まって、ばっちりハモってるヴォーカルアンサンブル、そして最後に、エレキ楽器によるロックアンサンブルで終わる、と。
玉木:う~ん、うますぎる、器用すぎる、自分達だけが楽しんでる、という印象だねぇ。
黒木:じゃ、今度は同じ曲をBBCのスタジオライヴのヴァージョンで聴いてみましょう――〈今度はスタジオライヴ版をかける〉――最後のロックアンサンブルのところ、ギターとキーボードのパートがひっくり返っているでしょ。基本的に彼らは曲を対位法で作っているので、こういう遊びができるんです。これは編曲を担当していたキーボードのケリー・ミネアの功績なんですけどね。彼はロイヤル・アカデミー音楽院で作曲の学位を取得しているんです。それが何を血迷ったかこんなロックバンドに手を染めてしまったんですね。
玉木:なるほど。
黒木:なぜ彼らがいまいち売れなかったかというと、彼らはどうも音楽的にすごいことをやりさえすれば良いと考えていたらしくて、こういう安直な発想をしちゃったところにあると思うんです。音楽の世界ってのは色々な面でのファッション性が求められると思うんですけど、彼らはそれを無視して音楽だけに走っちゃった。
玉木:僕自身も若い時にそういう考えで失敗を繰り返してるんで、少々耳が痛い。
黒木:でも逆にそういう純粋さみたいものが曲がりなりにもジェントル・ジャイアントというバンドで結実したことがあるという事実、それはそれですごいと思うんです。

INFORMATION

 ジェントル・ジャイアント/GENTLE GIANT
 『in concert』(WIN CD 066)→先に聴いた「ON REFLECTION」入り。
 『Playing the fool』(S21-18466)→ライブなのに、この凄さはなに?
『Out of the woods』〈the BBC sessions〉(BOJCD018)
 →じっくり聴けるスタジオ生。

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 アトマスキュア・コンサート

 「第3の夢」、大成功でした!

 7月の15日(土)、いつもの定例とはちょっと趣の違った純正律のコンサートが、東京・芝abc会館ホールで開催されました。今号の「癒しの現場から」でも御紹介した陽幸堂の峰咲マーユさんと、純正律研究会代表玉木宏樹氏との出会いから生まれた新作CD『第3の夢』(「純正律かわらばん」↓を参照のこと)の発売を記念しての企画で、マーユさんの所と純正律音楽研究会との共催、リズム時計工業(株)ほかの協賛によって、拡大版と呼ばれるにふさわしい、盛り沢山な内容でお届けすることができました。
 プログラムも実に欲張りでした。この夜の玉木氏(この夜のために新調した絽の渋い衣装で登場!)は純正律だけでなくおしゃべりヴァイオリンも絶好調。さらには、会員のみなさんにはすっかりおなじみ、巻上公一氏のホーメイや口琴、トゥヴァの楽器による即興演奏、田代耕一郎氏のカンテレも響きわたります。また、純正律にチューニングされた玉木弦楽四重奏団による演奏では、同じ曲を平均律と純正律とで聴き比べてみるコーナーもあり、生で体感する純正律の響きの豊かさに、会場の皆さんも衝撃を受けた様子です。途中、峰咲マーユさんによる
健康指導法のお話コーナーでは、なんと、黒木朋興氏がモデルとして駆り出される場面も。もちろん、その黒木氏を交えての「枯葉」もあり、クラシックからエスニック、モダン、アバンギャルドまでが融けあい、不思議な調和を醸し出す夕べとなりました。
 abc会館ホールは400席という大きめの会場でしたが、お陰様でほぼ満席となり、また、お客様にも十分に楽しんでいただけたようです。来年もまた開催される予定とのことですので、御期待ください。
 最後に、夕方からのコンサートのために、早朝から入って動き回っていた舞台の裏方スタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした!

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→→→純正律かわらばん→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→

●純正律新作CD出来ました!
 玉木宏樹『第3の夢』――サウンド・テラピー
 価格――税込2500円(ATMC-2000)
�本誌5~6ページで御紹介した陽幸堂の峰咲マーユ氏プロデュースによるミニアルバムです。身心のセルフチューニング用にと委嘱された「第3の夢」、純正律定例コンサートで好評を博しCD化が待たれていた新曲「風のルフラン」、玉木氏と峰咲マーユ氏との運命的な出会いから生まれた幻の名演「風の彩」、そしておなじみ「ケルト幻影」の4曲入り。これまでのミネラル・ミュージック・シリーズとは一味違う、玉木ワールドの新境地を感じてください。御注文は純正律音楽研究会事務局にて承ります。
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●文京学園の生涯学習センターで純正律講座を開講!
 癒しのひびき「純正律」――その天国的な音世界を探る――
�この秋、文京女子大学・文京女子短期大学生涯学習センターの社会人講座で、玉木宏樹氏を講師とする純正律の講座「癒しのひびき『純正律』」が開講されます。様々な純正律音楽鑑賞や玉木氏のヴァイオリン演奏等を交えた体験型の講座です。10月17日、24日、31日、11月14日、21日の全5回で受講料は12000円(テキスト代含む)。定員20名。関心のある方は、文京女子大学生涯学習センター(電話03-5684-4816)までお問い合わせ下さい。

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@@@@@西麻布通信@@@@@

◆おかげさまで、この7月で純正律音楽研究会は創立1周年を迎えました。昨年の今頃、研究会創立コンサートと会報創刊準備号発行が重なり事務局は大混乱でした。今も混乱ぶりは変わらずですが、関心をお寄せくださり物心両面から御支援くださる全ての皆様のおかげで、純正律音楽研究会は少しずつ前進し続けています。今年後半は純正律をめぐる大きな展開がありそうですし、会としてもイベント、CD等を通じて新たな試みに挑戦していく所存です。至らぬ点も多いことと思いますが、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
◆いよいよ純正律音楽研究会、欧州進出か? 黒木朋興氏がお仕事のため渡仏されます。といっても、もちろん今後も会報等、様々な形で会には関わっていただきますが。御活躍をお祈り申し上げます!

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 〒106-0031 東京都港区西麻布2-9-2(有)アルキ内
Fax. 03-3407-3726 / E-mail: archi@ma.rosenet.ne.jp
 純正律音楽研究会 まで

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いちばん速い純正律情報はこちら!
 →玉木宏樹のホームページ
  URL :  http://www.midipal.co.jp/~archi/index.html
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